よくある質問Q&A

Question & Answer

 初めて教会へ来られる際、誰もが期待と不安や緊張の入り混じった思いで教会の門を通ります。「教会はどのような集いだろうか」「クリスチャンではない自分が行ってもよいのだろうか」等々、不安な思いに駆られます。しかし、心配はご無用です。天地万物を造られた神様はこの地上の全ての人が教会に足を運び、礼拝することを望んでおられるからです。

「主を賛美するために民は創造された。」詩編102編19節

 教会はどなでも迎えることができるよう、また安心して礼拝を献げるための環境作りに日々取り組んでおります。どなたでも心より歓迎いたしますので、安心してお出かけ下さい。

初代キリスト教会での交わりの中心は「礼拝」です。キリスト教会では十字架で死に、墓に葬られたイエス・キリストが甦ったとされる日が太陽暦で日曜日であったことから、この日を「主の日」(主:キリスト、神という意味)として礼拝を献げるようになりました。礼拝は10時30分から始まり11時45分に終了いたします。礼拝ではプログラムの流れに従って聖書朗読、讃美歌の歌唱、公同の祈祷の時、奉献の時を持ちますが、そのプログラムの中心は説教です。説教とは牧師による聖書の解き明かしを指します。聖書や讃美歌は受付でお貸しいたします。どなたでも参加することができます。

 お祈りの仕方について特別な形や決まりは特にありません。初期のキリスト教会ではお祈りをする際に、朗読者が聖書の中の詩編と呼ばれる書物を読み、それを聴く会衆がその言葉に対して「アーメン」と唱える形でなされてきました。「アーメン」とは「その通りです」という神様への信頼を意味します。礼拝の際には代表者が祈りますが、普段の生活においては、個人でも自由なかたちで祈ることができます。自分では祈ることが出来ない場合、誰かに頼んで祈ってもらうこともよいと思われます。祈りのお手本としてイエス・キリストは「主の祈り」というものを教示されています。この祈りは、聖書の中に書かれているものであり、今も教会では祈りの基本として大事にされている祈りの言葉です。

主の祈り

 天にまします我らの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。
み国を来たらせたまえ。
み心の天になるごとく 地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を 今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄とは限りなく なんじのものなればなり。アーメン

※主の祈りはキリスト教の新約聖書に記されています。
 新約聖書はギリシャ語で書き記されましたが、現在は100ヶ国以上の言葉に翻訳されています。

 キリストの教の聖書とは「旧約聖書」と「新約聖書」の二つの部分から成り立っています。イエス・キリストが現れる前までは、聖書とは「旧約聖書」だけを聖書としていました。そこには神がイスラエルの民との間で交わされた約束の言葉などが記されています。主な事柄として、イスラエルの民への神の祝福の出来事、正しい道を歩むための教えや諭し、来るべきメシヤ(キリスト)の到来の預言などが書かれています。メシヤとはキリスト=救い主のことです。約2000年前、ユダヤのベツレヘムで生誕したイエスこそがキリストであると信じた人たちが書き記した部分がそれまでの聖書に追加され、その部分が「新約聖書」と位置付けられました。聖書は神様からのラブレターです。是非、直接ご自分の手にとって読んでみて下さい。神の愛と慰め、生きる意味や希望ある言葉に接することができることでしょう。

献金とは、心からの真心を真の神様へ感謝のしるしとして献げる行為です。ですから、礼拝への参加料、寄付や賽銭、ご利益を祈願しながら為すこととは違います。教会では献金のことを「奉献」とも呼びます。キリスト教での「奉献」には、主イエス様が父なる神様のご計画に従って、十字架に身も心をも献げたという最大の奉仕を意味します。大事なことは、私もイエスと共に、神の恵みに感謝しながら、信仰によって身も心もお献げしますと表明することです。ご準備のできるお方はお献げ下さい。

 昔は日曜学校と呼ばれ、教会では子どもたちに向けての学びの時を持っていました。時代の変化の中で日曜学校は子どもから大人までが一緒に学ぶ時間となり、今日の「教会学校」という名称となりました。教会学校は誰でも参加することができる「生涯学習」の場です。決まった入学式もテストもありません。参加、不参加も各々の自由です。教会学校では小さなグループ毎に分かれて聖書を読みあい、そこで感じたことを自由に話し合ったりと楽しく、有意義な時を持ちます。多くの教会では日曜日の礼拝前などに行っています。

バプテスト教会の歴史は、17世紀初頭の英国(イギリス)において信教の自由に制限を設けようとした国の意向に危機感を覚えた英国教会の司祭(清教徒)が聖書を第一とする信仰の自由を唱えたことに端を発してスタートしました。新共同訳聖書の中に出てくる「洗礼」という言葉は「バプテスマ」と読むことも認められています。一つの意味は、神が人の心を洗い清めるということです。もう一つの意味は、キリストの死と復活に与るということです。バプテスト派の教会とは特に後者の「キリストと共に死に、キリストと共に復活する」ということを重視してきたグループです。