2019年度 巻頭言

2020/02/23 Sun 主日礼拝

宣教: 神の下にある権威者
聖書: ローマの信徒への手紙 13章1-7節

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。ローマ13:1」

 紀元前480年頃、ギリシャ内には要塞都市とするポリスが点在するかたちでその周辺は成り立っておりました。ポリスは小さな力の集結をもって自衛する要塞都市であり、その後のローマ帝国のモデルの原点のようにもイメージできます。国家はその国に住む人々の安全と正義のために存在し、野獣や侵略者から守る責任がある故に、人々は国家に従い、国家が定めた法律を遵守する責任があるといえます。ローマの平和は強大な軍事力によって庇護されたものでした。そのローマも神の権威の下にあるとキリスト者は考えて、国の安寧と秩序のために祈り、国家に従うことを選び取りました。これを機に、キリストを信じる者たちは反ローマ主義という敵愾心から脱却し、ユダヤ教から完全に袂を分かち世界宗教へと変わっていきます。正統なキリスト教徒は武力蜂起をしません。キリストとの忍従をもって、世界の平和のために執り成しの祈りを献げることを是としたのです。今、新型ウイルスが猛威を振るい、誰もが戦々恐々とし不安の思いに駆られています。命を与えられる神様は、同時に命を奪われる神様でもありますが、このことは全ての国と力と栄が神の権威の下にあることを人類が知るようになるためであり、神による回復が与えられるためであると私は思います。神の御心、最善がなされますように。牧師 山本龍一郎

2020/02/16 Sun 主日礼拝

宣教: 善をもって悪に勝つ
聖書: ローマの信徒への手紙 12章9-21節

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。ローマ12:9-10」

 「光あれ」と命じられた神の言葉により、混沌とした闇の深淵にこの大地は美しいものとして創造された。神の創造の業は、自身に似せて造られた人間の誕生をもって、秩序付けられ、完成するに至ります。この世界は神によって造られた素晴らしいものである故に、役に立たつことなく、切り捨てられてしまう命はない。私たちは神を見失う時、罪の内に陥り、不安と恐れの中で、慢心となり真実の愛に背を向ける。
 2000年以上前、人々から罵られ、十字架にくぎ付けとされたキリストは、自分の冤罪をも訴えることなく大いなる痛みを負われた。その行為が神の善であることを全ての人類が知るためであり、神の憐れみと救いに人間が与るためであった。人間の邪悪な思い、怒りと憎悪を裁くために神の独り子はこの世に遣わされた。神は愛であり、私たちは神によって造られた尊い存在である。互いに良い部分を褒め合いながら、助け合う際、そこに神はともにおられます。この暗い時代、皆で光の子となって共に生きよう。牧師 山本龍一郎

2020/2/9 Sun 主日礼拝

宣教: わきまえ
聖書: ローマの信徒への手紙 12章1-8節

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」 ローマの信徒への手紙12章2節

 私たちは人と人との信頼関係を築き合い、相互扶助する関係の中で共に生かされています。しかし、人間同士の信頼関係が破断し、人間不信に陥ることがあり、実に人間とは不可解なものと思えてしまい、一人殻の中に閉じこもることで安堵するのも私たち人間の一面である。全ての命は神よって造られている存在である故、無駄な命は一つもないと言いながらも、私たちは役に立つ、立たないで、人の存在に優劣をつけて選別する思いに囚われてしまいます。世に倣うのではなく、無から有を造り出し、全てを良しとして下さる神様に倣い生きようではないか。神の目に善いこと、神の御心に生きようとするのであれば、人間は真の人間らしさを取り戻し、創造主なる神をたたえながら、希望と喜びのある明日を生きることがきっとできるようになるであろう。 牧師 山本龍一郎

2020/2/2 Sun 主日礼拝

宣教: イエスはいったい何者か
聖書: ヨハネによる福音書 7章37-44節

「イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』」ヨハネによる福音書7章37a-38節

 天地万物の創造主なる神様は私たち人間を数ある生物の中で、最も尊い存在として造られました。創世記1章26節では「我々に似せて人を造ろう」と聖書に書かれています。このことは人間の内に神性が含まれており、神の内にも人間性を含んでいる理解することができます。キリストが神の身分でありながらも、そのことに固執されず、僕の姿で、人として来られた事実からも、神様は人間を特別な存在として造られたと言えます。そのキリストは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」と叫ばれました。エゼキエル書47章には命の水が神殿内より沸き上がり、その場所が水で満たされ、生き物が元気になるとの幻の預言が綴られています。霊的な命の水が、求める者の魂の渇きを満たし、真の神様を褒めたたえることができる状態へと至らすということです。神の祝福は、私たちの現実的な生活が豊かになることだけに止まらず、神様から離れた状態で混沌とした闇の中で生きる人間を罪より救い出されます。真理は人間を自由にします。真理とは神様が為される完全な救いの働きそのものであります。神が生き、今も小さく、貧しい私たち人間を含む被造物全てのために豊かに働かれ、導いておられる事を霊的に知らされる時、私たちは真に希望と感謝をもって生きることができるようになるのです。神様が命の水で私たちの魂を満たして下さるように。牧師 山本龍一郎

 地球温暖化と叫ばれる昨今ですが、この真冬にも関わらず、教会の敷地内で菜の花が咲き出しました。多くの人に喜ばれる初物も、今後は一年中収穫できるようになれば、希少価値も低くなるのではと多少心配しながらも、嬉しいと思ってしまう私は身勝手なのかもしれません。でも、笑っていられない深刻な問題を私たちは抱えていますね。2020/1/28

2020/01/26 Sun 主日礼拝

宣教: あなたの信仰があなたを救った
聖書: ルカによる福音書 8章40-48節

「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」ルカによる福音書 8章48節

 1月25日に西南学院大学チャペルで行われた中村哲医師のお別れ会に参列いたしました。中村先生は30年以上、アフガニスタンの人々のために仕えられました。山岳地帯で暮らす貧しい人々への無償の医療活動を始め、戦禍により難民となり、食べることにこと欠き、不衛生な生活環境下に置かれた100万人の命をつなぐための水源確保を目指し1600もの井戸の掘削を実現、その後、灌漑事業に取り組まれて、田畑まで引水するための水路設置事業を推進、潤いのある豊かな大地には作物が実るようになりました。昨年12月に中村先生が凶弾に斃れられてから二ヵ月が過ぎようとしております。神を愛し、隣人を愛することに身を挺した中村先生の思いは、今、次の担い手に引き継がれようとしています。キリストの愛の力を原動力とした中村医師の思いに、神様は必ず応えて下さり、アフガニスタンの地に豊かな祝福を与えて下さると思います。
 イエスはガリラヤ地方から南下するようにパレスチナ地方の村や町を訪れては、病に苦しみ、死の淵を彷徨う人々に接して、最善のみ業を為されました。イエス一行の来訪を心待ちしてた一人の女性は12年間、病に苦しみ、その治療のために自分の全財産を使い果たしたと聖書に記されています。彼女は最後の力を絞り出すようにして、群衆の間から手を伸ばしイエスの服に触れます。するとたちまち病は癒され、イエスは群衆の中から彼女を捜し出し、言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と。イエスよる救いとは、神に見出された人間が、自分が帰属すべき神の国に帰ることを決心することから成り立ちます。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神を愛する際、人は聖霊によって心身共に清められ、豊かにされ、確かな今日から希望と平和の道に一歩を踏み出すことができるようになります。イエスとの出会いこそが、人間にとっての出発地点であり、同時に終着地点となる神の国、救いなのです。牧師 山本龍一郎

2020/01/19 Sun 主日礼拝

宣教: 悪霊から解放された男
聖書: ルカによる福音書 8章26-39節

「『自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。』その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。」ルカによる福音書8章39節

 心と身体のバランスがどちらかが崩れることで、その影響は身体の全体にまで及ぶこともあります。人間は身体だけで成り立っているのではなく、また心の平安だけで存在することができる訳でもありません。聖書には、人とは霊と心と体の三つ部分で成り立っていると記されています。(テサロニケ一5:23) 霊の糧とは人の心を癒し、希望の思い与えて下さる神の言葉のことです。肉の糧とは身体機能を養うための良好な栄養源となる食事のことです。これら二つをバランスよく摂取することこそが人を生かす力の源となると言えます。2000年前、イエスが布教活動をされた際、ガリラヤの向こう岸のゲサラ人の地方で一人の男が悪霊に取りつかれて苦しんでいました。彼は人里から離れ、衣服を身に着けず、一人墓場に住む生活をしていました。社会との接点の喪失、自己嫌悪、孤独、絶望を思いながら生きることに意味を見いだせないその人にイエスは接し、彼の内より悪霊を追い出したのです。彼はイエスによって癒され、新しく生きるようにと造り変えられてゆきます。私たちは自らの努力で自分自身の心を刷新することはできませんが、神の言葉は霊的な働きをもって人の心を癒し、回復を与えることができると聖書には記されています。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。ヨハネ3:3」とイエスは言われたように、神は私たち人間に恵みを与えることがおできになるのです。暗黒の闇が今もこの世界中を覆いつくしてしています。その闇の中において真の光を求める者たちの呻きに神様は耳を傾けて、救いの御手を差し伸べて下さいます。イエスこそが私たちの救いの保証であり、元気の源、希望の光です。牧師 山本龍一郎

2020/01/12 Sun 成人祝福礼拝

宣教: わたしが「それ」
聖書: ヨハネによる福音書 4章16-30節

「『神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。』女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。』イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである。』」ヨハネによる福音書4章24‐26節

 人は悩み苦しむ中で、真理なるもの、気高く揺るぐことのないものに救いを求めることは確かなことです。苦しい時の神頼み、拝み倒しでも今の危機を乗り越えたいという状況下に置かれる際、人はおのずとそのような思いに至ります。普段、私たちはそのような危機にも耐え得ることができるよう備えながら努力することには熱心であっても、その背後に神様がおられて、安息の場所を与えようと準備されていることには無頓着です。神様はご自身に対して霊と真理をもって礼拝する者を求めているのです。世界の国々でさえ常に揺れ動いています。大国は互いにけん制し合う中、強力な武力をもって互いに対峙し、緊張状態によって平和を維持している状況に置かれています。何故、人間は争うのか、奪い合うのか、人類が永遠に学び続けなくてはならない究極のテーマです。空しいもの、不確かなもの、欺瞞が漂う世界で人間は日々、十字架のキリストによって罪を赦され聖めていただいて新しくされてゆく必要があります。心晴れやかに、そして健やかに生きるためにも。キリストとはメシア、神より油注がれた者という意味です。キリストは人類の救い主であり、イエスであったと聖書は今も証言しています。祈りとみ言から常に始めましょう。牧師 山本龍一郎

2020/01/05 Sun 新年礼拝

宣教: 我が身を主にまかせよ
聖書: エフェソの信徒への手紙 3:7-13節

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。」エフェソの信徒への手紙3章10-11節

 2020年、第一週の主の日を迎えます。神は今日も私たちの群れをキリストの教会として立ち続けることを許して下さっています。教会は人の集団であり、決して磐石ではなく流動的、不完全でもあり、どこかに欠けがあります。その欠けが大きすぎれば教会内に異物が多く入り込み混乱をもたらします。しかし、小さな欠けから豊かな恵みが訪れることもあることから、欠けも主イエス様によるご計画のために用いていだけると信じても良いと思います。神の知恵とは聖霊による神の宇宙全体に対する計画の先取りのことを指します。使徒であり伝道者であったパウロは以前は神を知らない者、神の計画に背く者でありましたが、彼は聖霊の力を受けてキリストの臨在を知らされ、回心の思いが与えられ、赦され、心癒され、福音に仕える者とされました。しかし、パウロの伝道の最前線は苦心に悩む日々の連続であったようです。また当時の教会の人々も同様に社会から差別や偏見の目で見られて、日々苦労していたと思われます。ところが神様はそのような人々の乏しい状態を通して、全世界へと福音を届ける計画を既に準備されていたのです。私たちも誇りましょう、十字架で最も貧しくなられた主イエスを、そして、その十字架に望みをかけている私たち自身を喜び誇ろうではないか。牧師 山本龍一郎

2019/12/29 Sun 主日礼拝

宣教: 神は和解の言葉を委ねられた
聖書: コリントの信徒への手紙二 5章17-21節

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」コリントの信徒への手紙二 5章17節

 過去から現在、そして未来へと繋がる道を敷いて下さった神様に感謝いたします。時代も人々の顔ぶれも移り変わりますが、神の言葉だけは今も変わることがありません。130年前に小倉教会の伝道に尽力した先達も、今を生きる私たちも同じ神様の言葉によって養われ、成長させていただきました。これから生まれてくる子どもたちも神の言葉によって育まれ、み心に適う人となるために教会は伝道・教育・牧会に励むことは神の御旨に適うことです。教会の発展は私たちの願いに神様が応じてくれたということではなく、神が私たちに願い事を与え、神様ご自身が豊かに働いて下さった結果の恵みであり、全ての人の口を通して神のみ名だけが永遠に褒めたたえられるようになるためであることを私たちは忘れてはいけません。栄光は神に帰するものであり、私たちの誇りではありません。信仰者の誇りは十字架だけであってほしい。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」という表現はキリストの死と復活を連想させます。死は神が定められた人間の罪の結果、滅びであります。何の罪との関わりもなかった主イエスを神は私たちの身代わりとして罪のしるしである十字架につけられました。その主イエスの死、復活こそが「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」ということです。神は愛であり、大いなる恵みと祝福を人間に与えて下さるのです。今年最後の主の日に感謝いたします。来る2020年も素晴らしい年となりますように。 牧師 山本龍一郎

2019/12/22 Sun クリスマス礼拝

宣教: 主メシアが生まれる
聖書: ルカによる福音書2章1-14節

「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」ルカによる福音書2章10-12節

 神のみ使いが「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と言われた。「あなたがた」とは野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちのことである。2000年以上前、世界で最初のクリスマスを祝った者たちは貴族階級に属し、ユダヤ人として自らを誇るような者たちではなく、日々の生活に追われながら懸命に生き、素朴な信仰に立つ羊飼いたちでありました。厳格なユダヤ教徒の目には、彼らの生活は律法を守れない罪の状態であり、彼らは神から離れて生きているように映ったと思われます。主メシアであるキリストが飼い葉桶で生まれたということに私たちが目を向ける際に一つのことに気づかされます。み子は家畜小屋という不衛生で危険が伴う場所で生まれたということです。そのことは日々危険が伴う羊飼いの生活とキリストの公生涯の苦難と底辺で合い通じます。神は小さき者たちを蔑ろにすることなく顧られたのです。飼い葉桶で生まれた御子は、全世界の人々を愛し、救うために来られました。十字架の死と復活こそがそのしるしであり、そのことは信じる者とっては永遠の保証、救いとなります。クリスマス、それは私たちも小さな者となって飼い葉桶のみ子に目を向けることから始まります。牧師 山本龍一郎

2019/12/15 Sun アドベント第三週礼拝

宣教: 今でしょ、決断の時は
聖書: ルカによる福音書7章24-35節

『「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」と書いてあるのは、この人のことだ。言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。』ルカによる福音書7章27-28節

 2000年以上前、ユダヤ地方のベツレヘムにおいて救い主メシアとしてイエスがお生まれになったことは単なる偶然ではなく、神によって定められた計画によることです。ユダヤの領地支配権がローマ皇帝の公認の下でヘロデ王に委ねられ、その圧政に苦しめられた時代、人々の不満の思いは日毎高まる一方でありました。暗い時代の中、イエスの先駆者とされた洗礼者ヨハネは、ヘロデ王がユダヤ律法を軽んじながら、独裁政治に酔いしれていることを糾弾しました。その大胆な行動を見聞きした多くの者たちは彼の傍に集まり、神に悔い改め、清めのバプテスマを受けたのです。そしてその時代の中で、イエスが救い主として歩み出す時が起されます。禁欲的生活に身を置き、神を第一主義と掲げた宗教者ヨハネは人々から尊敬され、偉大なる方と賞賛されたのですが、イエスはそのヨハネを凌駕した存在として世に認められるようになったことも事実です。暗い時代、神は確かな希望と平和を与えるために、救い主イエスをこの世に贈って下さったのです。その目的は私たちが滅びより救われ、永遠の命に与るためであると聖書は今も語ります。牧師 山本龍一郎

2019/12/8 Sun アドベント第二週礼拝

宣教: 倦むことなく弛むことなく
聖書: ルカによる福音書21章7-19節

イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか、「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。』ルカによる福音書21章8-9節

 アドベント第二週主日を迎えます。今日も私たちは、神がこの世をこよなく愛されておられること、キリスト・イエスの十字架によって罪の内より神様に立ち返ることができる恩寵に与ることが許されていること、死より甦られたキリストは復活し、再び世の終わりに来臨されることを待ち望みながらこの日を過ごします。ルカによる福音書が書き記された時代から数十年前、ユダヤでは民衆の生活困窮が続き、皇帝ネロによる支配に反発心が高まり、過激なユダヤ教徒(熱心党やシリカ等)が解放を叫び、各地で革命暴動を起こした時代でした。ローマの守備隊は敗走に追い込まれますが、強大な軍事力を背後にローマ軍は着々と失地を回復し、エルサレム神殿も城壁も町も全てが破壊し尽くされてしまいました。暗い時代が続く中で、それでも人々は政治的メシヤが必ず現れて、自分たちを現実的な解放へと導くと信じていたのです。後にユダヤ教から完全に離れ、全世界で生きる道を選択したキリスト教の信仰は、現実的政治運動から縁を切り、彼岸的終末思想に辿り着きます。先達のキリスト者は主イエスの愛と忍耐をもって、神に従い、隣人や国家のために祝福を祈ことから全てを始めたのです。肉体は失っても、魂は失われることはありません、神は今も生きておられます。牧師 山本龍一郎

2019/12/1 Sun  アドベント第一週礼拝

宣教: これは一体何なの
聖書: ルカによる福音書1章26-38節

「天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。』」ルカによる福音書1章28-31節

 一年の最終月となる12月に主イエスのご降誕を覚えて私たちはクリスマスを喜び祝います。しかし、天使ガブリアルを通して受胎告知を知らされたマリアは非常な恐れと困惑の中で、その切迫した事態に決断をもって対処してゆかなくてはならない状況に置かれます。ユダヤにおける結婚の習慣では、婚約者以外の異性との関係は姦淫とされ厳しく罰せられた時代でありました。天使からの挨拶についてマリアは何のことかと考え込んだと聖書に記されております。その原意は「筋道を立てて考える」という意味です。つまりマリアは冷静に思慮深く考えようとしたのです。神の代理者としての天使の顕現、告知に対して思いを巡らしたマリアは神の意に、その身を委ねました。信仰による決断とは、人の思いによらず、神によりて与えられる出来事であります。しかし、普段、私たちは、全てが神様による計らいとは思えないような現実の中で苦しみ、悲しむことも少なくはありません。愛は冷え、希望をも見失ってゆく空虚な世界のように見えてしまう現実の中に私たちは生きています。でも、そこに神が共におられると聖書は今も語ります。共に良きクリスマスを迎えることができますように。牧師 山本龍一郎

2019/11/24 Sun  世界バプテスト祈祷週間礼拝

宣教: わたしは弱い時にこそ強い
聖書: コリントの信徒への手紙二、12章7-10節

「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」コリントの信徒への手紙二、12章9節

 本日より世界バプテスト世界祈祷週間を迎えます。このことは今から100年以上前に米国から中国の山東省に赴き40年間、福音宣教の働きに仕えたロテー・ムーン宣教師の献身的な生涯の歩みに感動した世界の人々から起こされた運動です。飢え、迫害、戦火の下で神の使命に誠実に応えたロテー宣教師の献身、それはまさに使徒パウロが経験した種々の困難の時と同様のものであったと思われます。万策尽きて何も頼るものがない思う時にこそ、私たちは心底から神に寄り頼み、諦念に至ることができると私は信じます。宣教師として外国に赴いて福音を宣べ伝えるということには非常な困難が伴います。言葉や文化の壁に接し戸惑うことを皮切りに、食事や気候の変化にも適応してゆかなくてはなりません。また家族を持つ者は、子どもたちの将来のことや健康面のことも常に気がかりとなります。そのような過酷な状況下に置かれながらも最善を尽くされる方々がいたことによって、現在の私たちの教会もあるということをもう一度思い出す時ではないでしょうか。神様は自らを誇る者ではなく、自分の愚かさや弱さを認めつつ、一切を主に託し、明け渡す者を祝し、尊い働きのために用いて下さることは事実です。十字架の主イエス様だけを私たちの誇りといたしましょう。弱さの内にキリストの力が現れるために。牧師 山本龍一郎

2019/11/17 Sun  主日礼拝

宣教: 主は呼んでおられる
聖書: ルカによる福音書19章1-10節

「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」ルカによる福音書19章9-10節

 ローマ帝国の属州となった国での徴税は公共事業請負業者に入札制で請け負わす仕組みになっていました。属州の徴税請負が一番儲けの多いものであり、資本家の多くがそれに参入し、人々から搾れるだけ税を搾り、支払えない者には高利貸しを行って更に儲けました。徴税人の頭で、金持ちであったザアカイが同胞から裏切り者と蔑視されていたことは想像するに難くないことです。ユダヤ同胞からそのように思われることも承知の上で徴税人となったザアカイは裕福でありながらも幸福ではなく、孤独であり、愛に飢え渇き、イエスによる解決を求めていたのです。イエスとの出会いよって彼は神に悔い改めて、人々に謝罪する態度をもって新しくされたことが聖書には記されています。神様は失われた一人の人間を捜しています。人は神から離れている際、失われた状態に置かれてしまいますが、神の傍に近づくのであれば真の命を得ることができるのです。牧師 山本龍一郎

2019/11/10 Sun  幼児 子ども祝福礼拝

宣教: 思いやりの涵養
聖書: ルカによる福音書14章7-14節

『婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、「この方に席を譲ってください」と言うかもしれない。』ルカによる福音書14章8-9節

 福音という良き知らせを宣べ伝える使命に立たせていただいている教会の業、その業に参与することが許されているキリスト者がいます。神様は働き人を通して神の御業を展開させてゆくことを定められました。それ故に教会は常に人と人とが繋がり合いながら、信頼関係を醸成してゆかなければなりません。福音宣教の業は一朝一夕には成し遂げられないということです。由って教会の奉仕者は常に互いに配慮し合い、隣人の立場を慮り、神を愛するように人を愛する謙遜な姿勢で仕えてゆかなくてはなりません。ダイバーシティー、多様性に耐え得ることが出来る弾力性を身に着けることが肝要となった今日の日本社会でありますが、やはりその考え方の根底には生産性の向上による利益第一ということがあくまでも基本であります。そのような社会の荒波に揉まれ、身も心も疲れ果てしまう私たち人間を慰め、再び仕えてゆく意味と喜びを与えて下さるのは神様です。主イエスの十字架の死と復活に目を向ける際、私たちの疲れや空しさは終りではなく、始まりであることに気づかされます。私たちが謙遜になって、互いに愛し合うようにと神は御子をこの世に与えて下さいました。隣人を自分のように大事にする思いが主によって涵養されますように。牧師 山本龍一郎

2019/11/3 Sun  主日礼拝

宣教: 尊い生きた石
聖書: ゼカリヤ書3章1節-10節

「ここに石がある。これはわたしがヨシュアの前に差し出すものだ。この一つの石に七つの目がある。わたしはそこに碑文を刻む、と万軍の主は言われる。そして、一日のうちにこの地の罪を取り除く。その日には、と万軍の主は言われる。あなたたちは互いに呼びかけて ぶどうといちじくの木陰に招き合う。」 ゼカリヤ書3章9節-10節

 亡国の憂き目に遭ったイスラエルの民は中東支配への70年間の帰服を経て、祖国に帰還、神殿の再建をもって自分たちらしさを取り戻すべく道筋が神様より与えられました。そして、彼らの未来には完全な罪の清め、即ち神による救いが与えられ、揺らぐことのない平和と繁栄が築かれると主は言われたのです。パレスチナ地方の土壌は浅く、地味がやせていたため、肥沃な土のある場所には果樹園が造られ、ぶどうやいちじく、林檎などが植えられました。人々の豊かな暮らしを支え繁栄させたのは人間ではなく神であって、その神様の約束に基づいて未来が造り出されると聖書は語ります。人生において受ける試練や困難の先には必ず回復と平和、希望が主イエス様によって与えられます。神様は南から北から西から東から散らされた者たちを呼び寄せて、2000年以上前にエルサレムに主イエス・キリストの教会を立てられ、今も綿々と神の福音宣教の業は押し進められています。私たちは今日も共に沢山の恵みを分かち合い、祈り合い、助け合いながら良い業に励む一週間に入ることができますようお祈りいたします。牧師 山本龍一郎

2019/10/27 Sun  主日礼拝

宣教: イエスは唯一の救い主
聖書: ヘブライ人への手紙3章1-6節

「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」ヘブライ人への手紙3章1

 台風に伴う雨の降水量が観測史上の記録を更新した地域においては河川が氾濫し甚大な被害が発生しています。地球温暖化によって海水温が高くなり、台風の勢力が大きくなるとも言われています。未来の子どもたちのためにも、私たちは地球環境を正しく治めるとはどのようなことなのかを今、まさに問われます。イエスは「使者」であり、「大祭司」であると聖書はいいます。「使者」とは「派遣された者」とも訳せます。イエスは、神の元より派遣されたと大使のような存在です。神の権威に基づいているお方です。そして「大祭司」とは「橋を架ける者」という意味です。最大の祭司が人と神との間を取り持つということです。イエスは人に仕えるため、人と神との間を執り成すために天より遣わされたお方です。私たちも、イエス様より夫々の場所へと派遣される神の大使とされる存在です。「地に満ちよ、増えよ」と神が言われた言葉によって被造物は存在し、神の栄光を現すために造られた尊い存在、それが人間であると神様は言われます。主にある希望と平和の内に全ての人が生きることができますように。牧師 山本龍一郎

栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。ルカによる福音書12章27-28節

パレスチナの丘に咲く深紅のアネモネ、夏に夕立がひとしきり降った直後、丘の斜面が深紅に染まります。しかしその命は数日間で終わります。森林の乏しいパレスチナでは薪の代りとして枯れた草木を炉に入れて火をおこしました。

2019/10/20 Sun  主日礼拝

宣教: 神のみ手に支えられて
聖書: ルカによる福音書12章4-7節

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」ルカによる福音書12章6-7節
 
 神様は初めに全地を正しく治めるようにと、人間にその権限が託されたと創世記から解釈することができます。神より託された権限こそ、自分たちに与えられてたと信じた人々が自国の領土拡大を図り、結果的に他国への侵略行為となったことはヨーロッパ史における一部分となりました。勿論、アジアにおいて日本も同様のことを犯したことも史実です。自分たちが正しい、優れた存在であるという自己優越は人の思いを傲慢へと駆り立て、他者を見下すという思いに至らせます。五羽の雀が二アサリオンで売られているという記事はマタイ福音書にも並行して記されています。マタイは二羽の雀は一アサリオンで売られていると綴っています。ルカは五羽で二アサリオン、ニアサリオンを差し出したら四羽ではなく、五羽もくれたということです。売り手は一羽サービスしてくれたということです。小さな雀一羽の命も私たち人間の命も神が造られたものです。命に小さい、大きいもありません。生命は神が造られた美しく、尊く、大事な存在です。神様はとりわけ人間を特別な存在として造られたと聖書は今日も語り続けます。十字架は滅びゆく者にとっては神の呪いであり、信じる者にとっては神の愛と永遠の救いです。主にあって神は人間をこよなく愛しておられることを覚えて感謝いたします。
牧師 山本龍一郎

2019/10/13 Sun  主日礼拝

宣教: 天の国は近づいた
聖書: マタイによる福音書10章5-15節

イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」マタイによる福音書10章5-7節

 聖書の中に記されている「天の国」とは厳密に訳しますと「神の支配」という意味です。始めイエスによってばれた十二人の弟子たち、パレスチナ地方に住むユダヤ人も、イエスを除いて誰一人もその「神の支配」とはどのようなことなのか、神のみ旨、み心については知ることが許されていない状態に置かれていました。イエスは「誰でも私の天の父の御心を行う人が私の兄弟、姉妹である。マタイ12:50」と宣言したように、「天の国」とは神秘であり、私たちには隠されたものであったと言えます。ただ唯一、イエスだけがそのことを知っておられて、神のご計画に従って進み行かれた故に、彼だけが完全に正しい者であったと結論付けることが出来ます。人間は自分がどこから生じて、どこに向かって、何のために生きているのかを分からないまま過ごすのであれば人生は苦悩に苛まれます。神は経綸をイエス・キリストによって築かれました。経綸とは国を治め整えるということです。神様がキリストによって敷かれたその道は十字架であり、愛と恵み、平和、祝福に満ちています。人生において彷徨う私たちを羊飼いであるイエスは守り導き、またキリストの弟子として世界へと派遣して下さいます。その使命の内において確かな私たちの暮らしがあり、明るく希望のある未来が据えられてゆくのです。牧師 山本龍一郎

2019/10/06 Sun  特別賛美礼拝

宣教: 新しい朝が来る
聖書: 詩編90章1-15節

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。」詩編90章12-13節

 詩編90章は、労苦を負ってきた人が瞬く間に過ぎ行く人生の短さを自覚しながら謙虚に生活の安全と楽しみを願い求める祈りです。その人は人生の空しさを覚えながらも自分に与えられた日々を平和に正しく過ごすために神様から知恵と力が与えられるように願い求めます。人は真の神様の導きよってのみ、己が弱く小さな存在であること、正しい方は神以外にはおられない事実、神は愛であり優しいお方であること等々に気づかされます。
 10月3日午前3時過ぎに井上和子姉が召天されました。突然のご逝去に誰もが驚き、戸惑いましたが、和子さんは神様への信頼と信仰をもちながら突如、神の御計らいによって天に引き上げられてしまったのです。イエス・キリストの父なる神様が厳かに命を下し、和子さんを天の御国に召還されましたことを私たちは心から感謝し、また同時に私たちも確かな神様の御旨、御心に適う人となり、常に天の御国に望みを置きながら日々を過ごす者でありたいと願います。
 本日は杉本慈恵さんをお招きしての特別賛美礼拝となりました。祈りと賛美をもって皆共に神様を讃えて、上からの励ましと力を頂くことができますようお祈りいたします。主の慈しみはとこしえに。牧師 山本龍一郎

※杉本さんによる賛美と証を公開しています。

2019/09/29 Sun  主日礼拝

宣教: 聖霊による導きによって励む
聖書: マタイによる福音書3章13-17節

「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」マタイによる福音書3章13-17節

 9月第5週目の主日礼拝を迎えます。本日は礼拝の中でS姉のバプテスマ式が執り行われます。神様のお導きに感謝いたします。バプテスマを受けるということには人間が神様に対する悔い改めの姿勢を表明するということが含まれています。罪の自覚、呵責の念を引きずりながら生きる人間こそが神様に赦していただくために受ける儀式です。罪を犯したことがないとされるイエスが何故、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたのか。そのことには二つの意味があります。一つは、罪に悔いた人々と同じ立場に立たれたということです。イエスはこの罪深いこの世のど真ん中を宣教の起点とされたのです。もう一つは、その罪を赦すために十字架で自らが犠牲となり、メシア(油注がれた者=救い主)となる使命を果たすために聖霊のバプテスマを受けられたということです。自ら小さき者となり、罪汚れに溢れるこの世で人々と共に歩まれたイエスは私たちの弱さをご存知であり、争いや混乱の中に十字架を通して真の平和を作り出し、永遠に至る希望を私たちに与えて下さいます。感謝いたします。 牧師 山本龍一郎

2019/09/22 Sun  召天者記念礼拝

宣教: 神の赦しによる真の平和
聖書: ヨハネによる福音書20章19-23節

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

 本日は召天者記念礼拝を献げます。先に召された諸先輩方を偲びつつ、自らも生と死に与る存在として創造主なる御神に造られたことを覚え、そのお方の御旨を聖書から共に学び、栄光の主に感謝を献げる日であります。私たちは本来、神の御旨を知ることもなく勝手気ままに自らの思いで生き、罪の内で怒り、嘆き、争い、希望を失った状態に置かれている存在に過ぎません。人類は古より今日に至るまで常に争いの中で互いに命を奪い合っております。イエスも、既存のユダヤ教に対抗する言動を示した罪の廉で、人々の手によって十字架につけられ処刑されてしまいました。イエスの弟子たちは肩を落とし自分たちの去就について思いを巡らすのですが、やがて自分たちも捕えられ露となって消えると思い恐怖に震えたのです。彼らが一軒の家で身を寄せ合っていた際、復活のイエスは彼らの前に現れたと福音書は語ります。神は彼らにイエスの死と復活の事実を確信させ、彼らを再び世に遣わすために聖霊を注がれました。聖霊は人間の罪の現実を暴き出し、それら一切がイエスの十字架の死によって償われ、完全に赦されたことを確信するに至らせます。人の心は神によってのみ完全に聖められ、癒されるのです。人を愛し生かす霊こそが聖霊です。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出します。 牧師 山本龍一郎

2019/09/15 Sun  主日礼拝

宣教: 心優しい百人隊長
聖書: ルカによる福音書7章1-10節

『主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。7:7 ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。』ルカによる福音書7章6b-7節

 ローマ帝国の権威の下での軍隊は全市民の中より財産額に応じて騎士と歩兵に分けられた分隊として機能していました。百人隊長は騎士に属する者であり、それなりの財産を所有した所謂地域における名士のような者であったと思われます。百人の部下の命を預かるという重責に耐え得ることができる人材であり、人々からもローマ帝国からも認められた存在であったと言えます。
 重篤な病で死にかかっていた部下を慮った百人隊長はイエスの来訪を願い、使いの者をイエスのもとに遣わすのですが、気が変わり更に友人を遣わします。その友人がイエスに伝えたこと、それは「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」でした。百人隊長はイエスより発せられるひと言の言葉があれば部下は助かると心底からの神への信頼を表明したのです。その直後、彼の僕は癒されたと記されています。この世の威光と尊厳は神より賜ったものであり、それらは同時に真の神様の権威とご支配のもとに属するものです。神さまへの信頼を第一にする者は、この世の事柄にも誠実に仕えてゆくことができると言えます。 牧師 山本龍一郎

2019/09/08 Sun  主日礼拝

宣教: 日の老いたる者
聖書: ダニエル書7章9-14節

「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることがない。」ダニエル書7章13-14節

 小倉教会では毎年、9月第二週目の主の日に「熟年者感謝礼拝」を献げております。長年社会のために貢献されてきた年配者を敬い、牧師がお一人びとりに神の御祝福と平安が賜るよう祈ります。「おめでとう」と誰かから声を掛けられ、「ありがとう」と応じる人と人との関係は互いに嬉しいことです。祝賀と感謝は豊かな人間社会の成熟を支えるためにとても大事なことです。ダニエル書7章13節には、「人の子」が天の雲に乗って「日の老いたる者」の前に来ると記されています。「日の老いたる者」とはウガリット文書(シリアの地中海岸にあった古代都市ウガリットに保存されていた粘土板文書)には「最高の神は灰色の髭の年老いた父」と刻まれています。ここに聖書の神様が「父」と呼ばれる所以があると言えよう。老齢は神の威光と尊厳、栄誉の象徴です。「人の子」とはイエス・キリストであり、世の終末に主イエスを平和の王とする永遠の御国が完成されるということです。神様は素晴らしい未来を人類に用意されています。日々、神様に感謝しながら、神と人と共に生きる私たちとなりますように。平安で穏やかな生活ができますように。主にあって 牧師 山本龍一郎

2019/09/01 Sun  主日礼拝

宣教: 主の顧み 
聖書: ルツ記1章1-7節a

「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。」ルツ記1章1節

 飢饉や迫害に接することによって移住生活を余儀なくされた者たちが聖書の記事の中には多く出てきます。アブラハム、ヨセフ物語、ナオミ、預言者エレミヤ等、ヨセフとマリヤとイエスも難民となったことは事実です。そのような先達が歩んだ多くの試練と苦難の中に神の顧みによる祝福が注がれたことに目を留める際、私たちは確かな希望と励ましを神様よりいただくことができます。ルツは非ユダヤ人であったにも関わらず、消滅しかけたユダ一族の系図を繋ぎダビデ王の誕生へと結びつけました。夫と二人の息子に先立たれて異国の地で未亡人となったナオミ、そのナオミの傍から離れずにいた嫁のルツはナオミと共にナオミの夫の親類を頼りに再びベツレヘムへ移り住みます。そこでルツはボアズと出会うことから再婚し男の子を授かりました。その子はオベト、オベトからエッサイが生まれ、エッサイからはダビデが生まれたのです。
 イエス・キリストは「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。」(ヨハネ14:13)と言われました。神と共に歩む人は如何なる時にも絶望することはありません。たとえ苦難、試練多き人生でありましても、主の名に信頼を寄せて歩む者は確かな希望と平和の道を、大いなる神によって計画された人生を進みゆくようになるのです。アーメン 牧師 山本龍一郎

牧師 山本龍一郎

2019/08/25 Sun  主日礼拝

宣教: 神の憐れみの情によりて
聖書: ローマの信徒への手紙11章25-36節

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」ローマの信徒への手紙11章33節

 この地域では、子どもたちの夏休みが今日で終わりとなります。学校生活に対して憂うつな気分になりがちです。夏が終わり、秋風が吹き始めるこの時期に誰もが何となく静けさと淋しさを感じます。誰もが誰かから励ましを受けて元気になり、穏やかで希望のある日々を過ごしてほしいと思います。社会において人は人との相互扶助による連帯なしで生きることはできませんが、人間関係がうまくゆかずに悩むことは少なくはありません。人間不信に陥り、心を閉ざすことが自然と身につき自己防衛しながら生きるようになるのも知恵かもしれない。神との関係を捨て、隣国との関わり、人間の力を頼りにしたイスラエルの不信心は罪とされ、救いは異邦人、即ちイスラエル以外の人々の上に先に訪れたと聖書はいいます。しかし憐れみ深い神はそのことによってイスラエルにねたみを起こさせ、彼らが再び神の憐れみを受けるためであると道筋をも整えていると記されています。即ちイスラエルを除く全世界に福音が宣べ伝えられた後、神はイスラエルを顧みられるということです。不義や争いの絶えない世界の闇の中に私たちは生きておりますが、神様は私たちを混迷する闇の中より救い出し、真の神を信じ愛することを望んでおられるのです。主の御名はほめたたえられるべきかな。 牧師 山本龍一郎

2019/08/18 Sun  主日礼拝

宣教: 安息
聖書: 申命記5章1-3節、12-15節

 今日の箇所の1節に、『イスラエルよ、聞け』という言葉が出ています。ここで『聞け』となっているのは、聖書の言語ヘブライ語では『シェマー』という言葉です。聞き慣れない言葉ですが、この『シェマー』から英語の scheme (スキーム:企画、形態、形)という言葉が生まれています。これは、神さまのお言葉を『聞く』いて行く時に、わたしたちの生き方が整い、骨格が出来、生き生きとした形を持つようになるということを表しています。
 わたしが中学生の時にこのようなことがありました。逗子市の踏切でのことです。遮断機は下り、警告音が響いていたのですが、自転車に乗った男の子がわたしのわきを通り抜けて踏切の中に入っていったのです。その結果は重大で、電車はすぐに止まったのですが、男の子は自転車のまま電車に巻き込まれました。悲鳴がし、救急車が呼ばれました。幸いにも命は助かったのですが、両足切断という大けがをしてしまいました。
 ここには『聞く』ことの大切さが示されているように思います。つまり神さまのお言葉を『聞く』いて行く時に、わたしたちの生活の中に生き生きとした形が与えられ、幸せが形をとるようになるのだということです。牧師 佐藤 清一

2019/08/04 Sun 主日礼拝

宣教: 将来の栄光に向かって
聖書: ローマの信徒への手紙8章18-25節

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」ローマの信徒への手紙8章22-23節

 私たちが生きる世界は神における平等と平和の下で共に喜び、共に泣く関係の中で成り立っていますが、国と国との関係に亀裂が生じたり、複雑な人間関係のもつれによって対立、歪み、分断が生じることもあります。神によって造られた被造物である私たち人間は、そもそも生まれた時から独りでは生きることができない存在であります。野生の動物であれば、生まれると同時に強い牙なり爪を身につけていますが、人間は裸であり力が弱い状態で生まれます。乳幼児を守るのは社会的連帯であり、人間は相互扶助によって育まれてゆく存在とされているといえよう。神の下に造られた私という存在が尊く大事な存在である故に、私たちは他者の存在をも同様と思うことができるようになります。命は神によって与えられ、神に向かって生き、キリストと共に死にキリスト共に甦り、永遠の故郷である神の国に憩うことを聖書は約束しています。喜びも悲しみも互いに共感し合いながら、祈り合い、主にある平和の内に今週も生きることができますように。牧師 山本龍一郎

2019/07/28 Sun  主日礼拝

宣教: 神が植えられる若木
聖書: 使徒言行録12章1-11節

「ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』」使徒言行録12章11節

 原始キリスト教会が発足した後、ユダヤではヘロデ王による激しい迫害が始まります。当時のキリスト教はユダヤ教の中での新興勢力と見做され、貴族階級に属するユダヤ教サドカイ派や厳格なファイリサイ派寄りの政治体制を維持するためにもキリスト者への迫害は有効的だったと思われます。使徒の一人であったペトロは投獄の身となりましたが、み使いによって牢獄から救出されたと記録されています。牢獄に入れられることで人間の心は敗北感と虚無感に覆われ弱まっていきます。キリスト者の勢力を抑制するために効果的な迫害方法の一つが「投獄」であったと思われます。そのような政治的もくろみにも神は勝利の道を備えられたことをペトロは確信し、上からの大きな励ましを受けたのです。聖書の神様はご自身が正しいとされる道を私たち人間のために敷いて下さいました。その道とはイエス・キリストに外なりません。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。ヨハネ14:6」 私たちの人生の途中で遭遇する困難や試練の最中にも主は必ず共にいて下さいます。そのことを信じ、証する、神を賛美するために私たちは神によって新たに造り変えられてゆくことに期待しようではありませんか。 牧師 山本龍一郎

2019/07/21 Sun  主日礼拝

宣教: 神の愛は私の力となる
聖書: ルカによる福音書6:27-36

「 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」ルカによる福音書6章35-36節

 滅び行く民は、悪行ゆえに自らが滅びに向かって進んでいることをも気づかず神に逆らい、こぶしを振るいながら断食し、自らは正しいという思いで立ち続けていると預言者イザヤは語りました。罪の溢れる世界に生まれた者はその罪の重大性に気づかぬまま、健気に生きている現実の恐ろしさを思わせる預言の言葉であります。悪気がない愚行ほど恐ろしいものはありません。イエス・キリストの黄金律とは「自分を愛するように隣人を愛せ」という一言に尽きます。しかもその隣人とは自分にとって受け入れがたい存在、「敵」とされます。罪の内に堕落し、神より離れ去ったイスラエルの民は神に敵対する存在となりました。その敵となった民をも再び取り戻すために神は御子をこの世界に遣わし、十字架での購いのための犠牲としてして下さったと聖書は語ります。神は敵となった民を一方的に赦し、愛し抜かれている事実を今も宣言します。普段、私たちは真の神様との精神的な深い関係を心に抱くことなく過ごしていることからも無意識で罪深い生活の中に身を置くことにも慣れてしまいます。その結果、重篤な罪の痛みにも鈍感となり、自らが悩み苦しむ原因に答えが見出せず、混沌とした日々を過ごすのであればその人の人生は空虚で希望ないものとなることでしょう。神の深い愛は真実であり、無条件で私たちに与えられています。その愛をもって、私たちも隣人を愛することができるようになるのです。そのように神の愛によって立つ人の人生は神の平和と希望、感謝に溢れたものとなります。 牧師 山本龍一郎

2019/07/14 Sun  主日礼拝

宣教: 神の清め
聖書: 使徒言行録10章9-16節

「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」使徒言行録10章11-16節

 厳格なユダヤ教徒は異邦人と交わること、異文化に触れることを忌み嫌いました。唯一の神はユダヤ人を愛し、彼らを通してのみ神の栄光を現されると考えたからです。異邦人への伝道に励んだペトロもそのような思いに縛られていた一人でありましたが、神様はペトロをローマ人の百卒長に出会う機会を与えます。その際、ペトロが滞在した場所は皮なめし職人シモンの家でありました。厳格なユダヤ教徒は動物の死体に触れる皮なめし職人からもてなしを受けることは夢想だにもしなかった。それにも関わらずペトロは神の導きの下、異文化の中に自らの身を置き、神がなさる愛の業に信仰をもって期待を寄せたのです。昼時、ペトロは地中海を目にしながら神が先立たれる場所において全ては清められてゆくこと、古き自分の価値観や偏狭な民族意識から解き放たれてゆくことを経験したと思われます。私たちが生きる世界では常に優劣意識や差別・区別意識が生じるものですが、神は全ての人を清め、全ての人々の文化、伝統を重んじています。神様は頑迷な人間の自意識を打ち壊し、真の解放と自由を与え、愛と寛容に生きる思いを私たちに与えることができます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」Ⅱコリント5:17  牧師 山本龍一郎

2019/07/07 Sun  主日礼拝

宣教: 夢を語ったヨセフ
聖書: 創世記37章1-11節

「今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。『一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。』兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。」創世記37章10-11節

 ヨセフ物語は、その家族内の分断、和解をめぐって話が展開されてゆきます。兄たちから生意気だと思われてエジプトに奴隷として売り飛ばされてしまうヨセフは予想外の出世を遂げ、飢饉によって食糧難となった兄たちがエジプトにやってきたことで再会します。エジプトでファラオより信頼され宰相となったヨセフの兄たちに対する葛藤する思い、愛と赦し、家族の窮地が救われ和解へ至るという話です。父親ヤコブのヨセフへの偏愛に始まる兄たちの嫉妬心が憎しみに変わる、そのようなことは私たちの日常生活の中でも起こることです。2000年前、イエスがしるしと神による権威をもって福音宣教を開始した際、律法学者や祭司たちはイエスを憎みました。多くの人々がイエスに歓心を寄せていったからです。人間同士のいざこざ、対立、複雑な関係の中に神の祝福は注がれ、未来は開かれてゆきます。私たち人間の思いを越えている神様の御計らいに目を留めてゆくことは確かな希望への一歩となります。神様は人間の悪意や妬みの思いをも神の祝福の出来事へと変えることがおできになるからです。十字架の主は今日も私たちを赦し、清め、平和と救いへと導いて下さいます。 牧師 山本龍一郎

2019/06/23 Sun  主日礼拝

宣教: 聖霊に勇気づけられた人たち
聖書: 使徒言行録4章23-31節

「『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。』 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」使徒言行録4章29-31

 使徒たちによって新しい教えがエルサレム中を席巻してゆくことによって、国内の勢力図が変化してゆくことを恐れた権力者たち(議員、長老、律法学者たち)は彼らの活動を迫害しました。しかしキリスト教の勢いを人間が抑制することは出来なかったことが聖書には記されています。神の力は私たちの弱さの中で発揮します。迫害、飢え、艱難、辛苦等々、誰もが避けて通りたい場面の中で私たちは真の神様に愛の手によって癒され、支えられ、信仰への思いが醸成されてゆく事実に気づかされます。ペトロ、ヨハネの二人が大胆に神の言葉を語り、多くの人々がキリストを信じるようになってゆくことを由々しき事態と思った議員たちはその活動を止めるように命令しました。しかし、二人は人ではなく神に従うことが正しいと考えて宣教に励んだのです。今週は「神学校週間」となります。神の特別なご配慮と導きの下で献身者が興されてゆくことを願い求めましょう。また本日は「命どぅ宝の日」でもあります。沖縄の人々の苦難の歴史を覚えながら一刻も早く真の平和が訪れるようにお祈りしましょう。今週も私たちの思いの中にキリストの愛と恵みが注がれて、神の赦しによる平安をいただきながら、神の言葉を大胆に語り、共に信じ、祈り合い、励まし合い、助け合いながら前進して参りましょう。 牧師 山本龍一郎

2019/06/16 Sun 主日礼拝

宣教: 神の祝福に与る
聖書: 使徒言行録3章1-10節

「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」 使徒言行録3章6-8章

 原始キリスト教会の使徒たちに神より付与された特別な権威とは、ガリラヤで宣教を開始したイエスが病める人々を癒し、神の国が到来したことを告げ知らせて励まされたのと同様、病を癒す権能であったと理解することができます。生まれながら足の不自由な男は毎日、神殿の傍の「美しい門」の傍まで運ばれて、そこで物乞いをしていました。ペトロとヨハネは祈るために神殿に向かった際、その男に出会い、主の名によって立ち上がるように命じ、その際、ペトロは右手を取って彼を立ち上がらせたとも記されています。救いは神より与えれる祝福の出来事でありますが、そこに至るまでの経緯の中に人からの援助、支えもあったことも事実です。創世記で神はアダムが独りでいるのを不憫に思われ、パートナーのエバを造られたように、人と人とが共生する世界をよしとされました。人は誰かから援助されながら生きる弱い存在として造られたともいえます。今日、私たちが生きる社会では常に強いことが是とされますが、神の力は私たちの弱さの中で発揮します。十字架のイエスの愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。神と共に生き、人と共に生きることができますように。 牧師 山本龍一郎

2019/06/09 Sun ペンテコステ礼拝

宣教: 茫漠たる地に聖霊が満ちる
聖書: 使徒言行録2章14-21節

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』使徒言行録2章17-18節

 本日はペンテコステ礼拝日です。ペンテコステとはギリシャ語で「第50」を意味します。今から2000以上前、ユダヤ三大祭りの中で最大となる「過越しの祭り」がエルサレムで行われた際、イエス・キリストは十字架刑となりました。それから50日後に「七週際」(収穫の刈り取り感謝祭)が行われた時にイエスが弟子たちに約束された聖霊が彼らの上に降り、皆が一斉に神の臨在を確信し、そこにキリスト教会の礎となる群れが興されました。ユダヤ人の歴史は度重なる迫害の憂き目に遭ったという事実であったことが聖書には記録されております。エジプトとバビロンでの捕囚、ペルシア時代の末期にはフェネキア人やペリシテ人によって多くのユダヤ人がギリシア人に売られました。『わたしの僕やはしため』とはまさに彼らが奴隷として扱われた史実を指しています。常に小民族であったユダヤ人は真の神様に精神的、肉体的解放を求めました。そして遂にこの日、神の霊は茫漠たる地に生きていた彼らの上に降り、そこに神の秩序に基づく教会の基礎が据えられたのです。『終わりの時』とは神の義が現れた日のことであり、イエス・キリストによる救いが全世界の人々の上に訪れたことを指します。主にある回復と一致、平和が世界の全ての人々の上に与えられますように。在主 牧師 山本龍一郎

2019/06/02 Sun 主日礼拝

宣教: 霊の導きに従って歩む
聖書: ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ガラテヤの信徒への手紙5章22-23章

 十字架で死なれたイエス・キリストの死は私の罪のための罰であったことを霊の働きによって悟らされる際、人間は神が愛であることを知るに至ります。愛は忍耐強く、情け深く、妬むことがないとパウロはコリント書に綴っております。私たちが生きる社会においては人が集まる場所で必ず競争原理が働き、人間同士のつばぜり合いが生じます。そのような刺激が契機となって研鑽と成長への促しとなればよいのですが、争い、不和、ねたみという具合に他者に敵意を抱くようなになりますと人間の心身は疲弊してゆくものです。キリスト教会で私たちが、兄弟姉妹と互いに競争し合うかたちになった際に多くを学ぶことができます。互いに連携すること、譲り合い、分かち合うこと、それらは神様の霊の働きによって与えられる喜びです。キリストの愛をもって互いに忍耐し協力を重ねてゆく際、夫々が主にあって結び合わされ神の教会として麗しく喜ばしいものとされてゆくことでしょう。主イエスを喜ぶことは私たちの力です。在主 牧師 山本龍一郎

2019/05/26 Sun 主日礼拝

宣教: イエスに導かれて生きる
聖書: ヨハネによる福音書21章1-14節

「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。21:12 イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」ヨハネによる福音書21章11-12節

 私たちが歩む先にどのような未来が待ち受けているのか、明日のことについては誰も知り得ることができません。だから明日のことを思い煩うなと主イエス様は弟子たちに語られ、今を生きる私たちにも語り続けます。十字架で死に墓に葬られたイエスは復活の後、弟子たちの前に現れたと聖書に記されています。師を失った弟子たちの多くは元々ガリラヤ湖畔で漁を生業とする者たちであったことから、彼らはエルサレムから再び自分たちの地元に戻り船を漕ぎ漁に出た際に再び復活の主イエスと出会ったと記録されています。その夜、彼らが打った網には何の魚も入らなかったが、そこに現れたイエスが指示した場所に網を打つと153匹もの大きな魚で一杯になったと記録されているのです。この153匹の魚とはガリラヤ湖に生息してた魚の全種類を含むと解釈するのであれば、この事象は、やがて福音はイエスの弟子たちを通して全世界の人々の上に宣べ伝えられることを示唆した出来事であったと理解することができます。そして主イエス様が弟子たちに朝食を準備されたことから、神は私たちに人間をこよなく愛しておられ、日常における必要を満たして下さる故、思い煩う必要は何もないと解釈することができます。神の豊かな祝福と導きの中で、平和と希望と感謝に生きる一週間の歩みとなりますようお祈りいたします。牧師 山本龍一郎

2019/05/19 Sun 主日礼拝

宣教: あなたは私の子ども
聖書: ガラテヤの信徒への手紙4章19節

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」ガラテヤの信徒への手紙4章19節

 イエス・キリストが十字架で処刑された後、直ぐにキリストの復活を信じた使徒たちを通して福音は全世界へ向けて宣べ伝えられてゆきました。その50年後、ガラテヤ地方のユダヤ人会堂においてパウロとバルナバが、新しい聖書の教えを説くことによりキリストの教会が興されました。そのことに危機感を覚えたユダヤ教徒たちは、新しい教えを阻止することに全力を尽くした思われます。その後、パウロの伝道を通して興されたガラテヤ教会は時間の経過と共に再びユダヤ教の教えに基づく形態に戻っていきました。パウロは我が子のように大事にしてきたガラテヤの人々の心が移り変わってゆくことを寂しく思い、キリストの愛と恵みに基づく情熱をもってこの書簡を綴ったのです。律法は人が生きるべく道を示しますが、それを守ろうとする人の努力だけによって、人は完成へと至ることはできません。一方、神の愛は人の心を癒し、強め、人を造り上げることがおできになります。それは聖霊の豊かな働きによることです。牧師 山本龍一郎

2019/05/12 Sun 新入生歓迎礼拝

宣教: 心、健やかに育まれて
聖書: マルコによる福音書8章14-21節

「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。」マルコによる福音書8章14-16節

 古代イスラエルの時代に一般家庭でパンを作るために使用された天然酵母は生のパン生地として保存していました。発酵過程では善玉菌が増殖することで炭酸ガスが発生します。自然界におけるこのような発酵とは不純物、即ち「悪いもの」が増殖してゆくこととユダヤ人は理解していました。発酵食品も温度調整を間違えますと腐敗してしまいます。イエス様が宣教された時代、多くの人々が天からのしるしを求めました。メシヤ(救い主)が到来する際に破壊的、奇蹟的なことが起ると多くの人が思い、それに呼応するように偽メシヤが大言壮語しました。その時代の世相や価値観に弟子たちの心が絡め取られている様子に対してイエスは警鐘を鳴らしたのです。今日、資本主義の下、日本の経済は物質的に恵まれ豊かになりましたが、人々の心と魂の部分は置き去り状態です。人の心と魂を養って下さる神の霊は今も働き、私たちを慰め、確かな愛と希望に基づく兆しを日々の生活の中に増し加えて下さいます。今日から始まる一週間、私たちと神が共にいて下さいますように。牧師 山本龍一郎

2019/05/05 Sun 主日礼拝

宣教: 心の目が開かれる
聖書: ルカによる福音書24章36-49節

「あなたがたはこれらのことの証人となる。49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカによる福音書24章48-49節

 十字架で死に墓に葬られたイエス・キリストは復活し、弟子たちの前に現れた。弟子たちは喜びのあまり、そのことを理解できず不思議がっていたので、イエスは焼いた魚を彼らの前で食べたと記されています。主イエスは今も私たちの日常生活の中に来られて、生きるための励ましを与えて下さいます。但し、復活の主が弟子たちの前に端然として現れたことには目的がありました。彼らが上からの力に覆われて、復活の主の証人となって福音が世界中へ運ばれてゆくという計画を神は備えられたのです。順風満帆の人生であっても、そうでない時にも、私たちの傍に復活の主がおわれると信じて歩むのであれば、そこに神の祝福の道は既に備えられています。私は主によりて心が開かれ、上よりの力を受けることによって、人として生きるべく道に立つことが出来るのです。現実は厳しくとも十字架の主を仰ぐのでああれば、そこに神の愛と命が溢れています。 牧師 山本龍一郎

2019/04/28 Sun 主日礼拝

宣教: 主の食卓に招かれる幸い
聖書: ルカによる福音書24章13-18、28-35節

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」ルカによる福音書24章31-32節

 十字架で死なれた主イエスが墓より復活されたという知らせは、瞬く間に弟子たちたちの間に知れ渡りましたが、この日、エルサレムからエマオに向かって出立した二人の弟子はそのことを知らず心暗くしていました。愛する人の死は、それを悼む人に悲哀をもたらせます。死は人生の意味を無味乾燥とさせ、虚無の果てへと私たちの心を導きます。しかし、イエスは既に復活されて、この二人の前にも現れたと聖書は証言します。神様は憐れみ深く、愛と忍耐に富むお方であり、失意のどん底にいる者を顧みて下さいます。十字架のイエスの死を視野に置いて未来を見据える人には必ず復活の主イエス様との再会、神の食卓に招かれる幸いが準備されているのです。私たちの元気の源は死に勝利された主イエス・キリストから与えられる真の力です。牧師 山本龍一郎

2019/04/21 Sun イースター礼拝

宣教: 死に勝利されたキリスト
聖書: ルカによる福音書24章1-12節

「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」ルカによる福音書24章7節

 週の初めの日、日曜日に婦人たちは敬愛する今は亡きイエスへの最後の務めとして、その遺体に香料を塗るために墓へと急いだ。しかし、そこにイエスの亡骸はなく、神の栄光に輝くみ使いはイエスの復活宣言を彼女たちに告げた。イエスの死を思い起こし、偲ぶための世界で最初の墓参りの日は十字架で敗北されたイエスの死を嘆き悲しむのではなく、復活の勝利を祝う喜びとなったのです。この世に生を受けて、育まれ人間とされてゆく私たちは生きながらも常に死を身にまとっています。よって人間は積極的に夢や希望を心に抱きながら生きると同時に、死に対する準備も備えてゆかなくてはなりません。神は御子イエス・キリストによってその死を滅ぼされました。神は罪の結果の滅びとしての死を人間に与えられましたが、その死の内に神は憐れみと情熱的な愛をもって新しい生命を生みだされたのです。神様は私たちが滅ぶのではなく、救われて、創造主なる神を賛美しながら永遠に生きることを望まれたのです。「人の子は十字架につけられて死に、三日目に復活する」、このイエス様の宣言を私たちが自分の心の中心に置くのであれば、人生は必ず明るく希望あるものとされてゆきます。イエス様のご復活を心より感謝いたします。牧師 山本龍一郎

2019/04/14 Sun 主日礼拝

宣教: ピラト、群集の鬱憤を晴らす
聖書: ルカによる福音書 23章13-25節

「ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。」ルカによる福音書23章22-23節

 ユダヤ三大祭の中で最も盛大な祭り「過越しの祭り」に詣でることは2000年前のユダヤの男子にとっての最大の関心事でありました。その祭りではローマ総督による裁判の公開、毎年の恒例の恩赦が見ものとされていた。ローマ帝国に支配されるユダヤ地方には法治の権限が許されていなかったため、総督ピラトの手にその権限が委ねられていした。ピラトはイエスを十字架に付ける理由が見出せず、彼を釈放しようとしたが、群衆は激しく憤りながらイエスの十字架刑を望んだのです。誇り高きローマの栄光である公平な正義は、群衆に横車を押されるかたちで捻じ曲げられ不当な裁判が行われた。十字架への道こそが救いの基となるよう神がその御子に課せられたことに私たちは驚き、戦きます。闇の力が振るうこの世界の不義の中に神の御心は実現したのです。神の御子はこの世界の罪より人類が救われるための恵み、新しい命です。神様は愛と忍耐をもって私たちを憐れんで下さったことに感謝しましょう。牧師 山本龍一郎

2019/04/07 Sun 主日礼拝

宣教: 瓦解したペトロの良心
聖書: ルカによる福音書22章54-62節

「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」ルカによる福音書22章61-62節

 受難節の只中、私たちは十字架へ進み行く決意をされた主イエス様の苦悩と孤独に思いを馳せながらこの時期を過ごします。弟子のペトロはイエスが受けられる苦難に自分も信従すると言いました。そのペトロに対してイエス様は「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。イエスが逮捕され、大祭司の家に連行されていった際、ペトロは恐怖のあまり、気力も、神に対する情熱の思いも全てを失い茫然自失となります。肉体的、精神的な苦痛と汚辱に身を浸しながら死んでいゆく十字架の恐ろしさがペトロの心を覆い尽くし、彼のペトロの心から神を追い出してしまった出来事となりペトロは慟哭するに至ったのです。神の計らいは弟子たちの願いや思い、そして今を生きる私たちの思いをも超えています。神様は人の心の汚れ、恥をも赦し清めるために御子を十字架で償いのための犠牲として下さいました。神は愛なり。牧師 山本龍一郎