2019年度 巻頭言

2019/08/04 Sun 主日礼拝

宣教: 将来の栄光に向かって
聖書: ローマの信徒への手紙8章18-25節

「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」ローマの信徒への手紙8章22-23節

 私たちが生きる世界は神における平等と平和の下で共に喜び、共に泣く関係の中で成り立っていますが、国と国との関係に亀裂が生じたり、複雑な人間関係のもつれによって対立、歪み、分断が生じることもあります。神によって造られた被造物である私たち人間は、そもそも生まれた時から独りでは生きることができない存在であります。野生の動物であれば、生まれると同時に強い牙なり爪を身につけていますが、人間は裸であり力が弱い状態で生まれます。乳幼児を守るのは社会的連帯であり、人間は相互扶助によって育まれてゆく存在とされているといえよう。神の下に造られた私という存在が尊く大事な存在である故に、私たちは他者の存在をも同様と思うことができるようになります。命は神によって与えられ、神に向かって生き、キリストと共に死にキリスト共に甦り、永遠の故郷である神の国に憩うことを聖書は約束しています。喜びも悲しみも互いに共感し合いながら、祈り合い、主にある平和の内に今週も生きることができますように。牧師 山本龍一郎

2019/07/28 Sun  主日礼拝

宣教: 神が植えられる若木
聖書: 使徒言行録12章1-11節

「ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』」使徒言行録12章11節

 原始キリスト教会が発足した後、ユダヤではヘロデ王による激しい迫害が始まります。当時のキリスト教はユダヤ教の中での新興勢力と見做され、貴族階級に属するユダヤ教サドカイ派や厳格なファイリサイ派寄りの政治体制を維持するためにもキリスト者への迫害は有効的だったと思われます。使徒の一人であったペトロは投獄の身となりましたが、み使いによって牢獄から救出されたと記録されています。牢獄に入れられることで人間の心は敗北感と虚無感に覆われ弱まっていきます。キリスト者の勢力を抑制するために効果的な迫害方法の一つが「投獄」であったと思われます。そのような政治的もくろみにも神は勝利の道を備えられたことをペトロは確信し、上からの大きな励ましを受けたのです。聖書の神様はご自身が正しいとされる道を私たち人間のために敷いて下さいました。その道とはイエス・キリストに外なりません。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。ヨハネ14:6」 私たちの人生の途中で遭遇する困難や試練の最中にも主は必ず共にいて下さいます。そのことを信じ、証する、神を賛美するために私たちは神によって新たに造り変えられてゆくことに期待しようではありませんか。 牧師 山本龍一郎

2019/07/21 Sun  主日礼拝

宣教: 神の愛は私の力となる
聖書: ルカによる福音書6:27-36

「 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」ルカによる福音書6章35-36節

 滅び行く民は、悪行ゆえに自らが滅びに向かって進んでいることをも気づかず神に逆らい、こぶしを振るいながら断食し、自らは正しいという思いで立ち続けていると預言者イザヤは語りました。罪の溢れる世界に生まれた者はその罪の重大性に気づかぬまま、健気に生きている現実の恐ろしさを思わせる預言の言葉であります。悪気がない愚行ほど恐ろしいものはありません。イエス・キリストの黄金律とは「自分を愛するように隣人を愛せ」という一言に尽きます。しかもその隣人とは自分にとって受け入れがたい存在、「敵」とされます。罪の内に堕落し、神より離れ去ったイスラエルの民は神に敵対する存在となりました。その敵となった民をも再び取り戻すために神は御子をこの世界に遣わし、十字架での購いのための犠牲としてして下さったと聖書は語ります。神は敵となった民を一方的に赦し、愛し抜かれている事実を今も宣言します。普段、私たちは真の神様との精神的な深い関係を心に抱くことなく過ごしていることからも無意識で罪深い生活の中に身を置くことにも慣れてしまいます。その結果、重篤な罪の痛みにも鈍感となり、自らが悩み苦しむ原因に答えが見出せず、混沌とした日々を過ごすのであればその人の人生は空虚で希望ないものとなることでしょう。神の深い愛は真実であり、無条件で私たちに与えられています。その愛をもって、私たちも隣人を愛することができるようになるのです。そのように神の愛によって立つ人の人生は神の平和と希望、感謝に溢れたものとなります。 牧師 山本龍一郎

2019/07/14 Sun  主日礼拝

宣教: 神の清め
聖書: 使徒言行録10章9-16節

「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい』と言う声がした。しかし、ペトロは言った。『主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。』すると、また声が聞こえてきた。『神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。』こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」使徒言行録10章11-16節

 厳格なユダヤ教徒は異邦人と交わること、異文化に触れることを忌み嫌いました。唯一の神はユダヤ人を愛し、彼らを通してのみ神の栄光を現されると考えたからです。異邦人への伝道に励んだペトロもそのような思いに縛られていた一人でありましたが、神様はペトロをローマ人の百卒長に出会う機会を与えます。その際、ペトロが滞在した場所は皮なめし職人シモンの家でありました。厳格なユダヤ教徒は動物の死体に触れる皮なめし職人からもてなしを受けることは夢想だにもしなかった。それにも関わらずペトロは神の導きの下、異文化の中に自らの身を置き、神がなさる愛の業に信仰をもって期待を寄せたのです。昼時、ペトロは地中海を目にしながら神が先立たれる場所において全ては清められてゆくこと、古き自分の価値観や偏狭な民族意識から解き放たれてゆくことを経験したと思われます。私たちが生きる世界では常に優劣意識や差別・区別意識が生じるものですが、神は全ての人を清め、全ての人々の文化、伝統を重んじています。神様は頑迷な人間の自意識を打ち壊し、真の解放と自由を与え、愛と寛容に生きる思いを私たちに与えることができます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」Ⅱコリント5:17  牧師 山本龍一郎

2019/07/07 Sun  主日礼拝

宣教: 夢を語ったヨセフ
聖書: 創世記37章1-11節

「今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。『一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。』兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。」創世記37章10-11節

 ヨセフ物語は、その家族内の分断、和解をめぐって話が展開されてゆきます。兄たちから生意気だと思われてエジプトに奴隷として売り飛ばされてしまうヨセフは予想外の出世を遂げ、飢饉によって食糧難となった兄たちがエジプトにやってきたことで再会します。エジプトでファラオより信頼され宰相となったヨセフの兄たちに対する葛藤する思い、愛と赦し、家族の窮地が救われ和解へ至るという話です。父親ヤコブのヨセフへの偏愛に始まる兄たちの嫉妬心が憎しみに変わる、そのようなことは私たちの日常生活の中でも起こることです。2000年前、イエスがしるしと神による権威をもって福音宣教を開始した際、律法学者や祭司たちはイエスを憎みました。多くの人々がイエスに歓心を寄せていったからです。人間同士のいざこざ、対立、複雑な関係の中に神の祝福は注がれ、未来は開かれてゆきます。私たち人間の思いを越えている神様の御計らいに目を留めてゆくことは確かな希望への一歩となります。神様は人間の悪意や妬みの思いをも神の祝福の出来事へと変えることがおできになるからです。十字架の主は今日も私たちを赦し、清め、平和と救いへと導いて下さいます。 牧師 山本龍一郎

2019/06/23 Sun  主日礼拝

宣教: 聖霊に勇気づけられた人たち
聖書: 使徒言行録4章23-31節

「『主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。』 祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」使徒言行録4章29-31

 使徒たちによって新しい教えがエルサレム中を席巻してゆくことによって、国内の勢力図が変化してゆくことを恐れた権力者たち(議員、長老、律法学者たち)は彼らの活動を迫害しました。しかしキリスト教の勢いを人間が抑制することは出来なかったことが聖書には記されています。神の力は私たちの弱さの中で発揮します。迫害、飢え、艱難、辛苦等々、誰もが避けて通りたい場面の中で私たちは真の神様に愛の手によって癒され、支えられ、信仰への思いが醸成されてゆく事実に気づかされます。ペトロ、ヨハネの二人が大胆に神の言葉を語り、多くの人々がキリストを信じるようになってゆくことを由々しき事態と思った議員たちはその活動を止めるように命令しました。しかし、二人は人ではなく神に従うことが正しいと考えて宣教に励んだのです。今週は「神学校週間」となります。神の特別なご配慮と導きの下で献身者が興されてゆくことを願い求めましょう。また本日は「命どぅ宝の日」でもあります。沖縄の人々の苦難の歴史を覚えながら一刻も早く真の平和が訪れるようにお祈りしましょう。今週も私たちの思いの中にキリストの愛と恵みが注がれて、神の赦しによる平安をいただきながら、神の言葉を大胆に語り、共に信じ、祈り合い、励まし合い、助け合いながら前進して参りましょう。 牧師 山本龍一郎

2019/06/16 Sun 主日礼拝

宣教: 神の祝福に与る
聖書: 使徒言行録3章1-10節

「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」 使徒言行録3章6-8章

 原始キリスト教会の使徒たちに神より付与された特別な権威とは、ガリラヤで宣教を開始したイエスが病める人々を癒し、神の国が到来したことを告げ知らせて励まされたのと同様、病を癒す権能であったと理解することができます。生まれながら足の不自由な男は毎日、神殿の傍の「美しい門」の傍まで運ばれて、そこで物乞いをしていました。ペトロとヨハネは祈るために神殿に向かった際、その男に出会い、主の名によって立ち上がるように命じ、その際、ペトロは右手を取って彼を立ち上がらせたとも記されています。救いは神より与えれる祝福の出来事でありますが、そこに至るまでの経緯の中に人からの援助、支えもあったことも事実です。創世記で神はアダムが独りでいるのを不憫に思われ、パートナーのエバを造られたように、人と人とが共生する世界をよしとされました。人は誰かから援助されながら生きる弱い存在として造られたともいえます。今日、私たちが生きる社会では常に強いことが是とされますが、神の力は私たちの弱さの中で発揮します。十字架のイエスの愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。神と共に生き、人と共に生きることができますように。 牧師 山本龍一郎

2019/06/09 Sun ペンテコステ礼拝

宣教: 茫漠たる地に聖霊が満ちる
聖書: 使徒言行録2章14-21節

『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』使徒言行録2章17-18節

 本日はペンテコステ礼拝日です。ペンテコステとはギリシャ語で「第50」を意味します。今から2000以上前、ユダヤ三大祭りの中で最大となる「過越しの祭り」がエルサレムで行われた際、イエス・キリストは十字架刑となりました。それから50日後に「七週際」(収穫の刈り取り感謝祭)が行われた時にイエスが弟子たちに約束された聖霊が彼らの上に降り、皆が一斉に神の臨在を確信し、そこにキリスト教会の礎となる群れが興されました。ユダヤ人の歴史は度重なる迫害の憂き目に遭ったという事実であったことが聖書には記録されております。エジプトとバビロンでの捕囚、ペルシア時代の末期にはフェネキア人やペリシテ人によって多くのユダヤ人がギリシア人に売られました。『わたしの僕やはしため』とはまさに彼らが奴隷として扱われた史実を指しています。常に小民族であったユダヤ人は真の神様に精神的、肉体的解放を求めました。そして遂にこの日、神の霊は茫漠たる地に生きていた彼らの上に降り、そこに神の秩序に基づく教会の基礎が据えられたのです。『終わりの時』とは神の義が現れた日のことであり、イエス・キリストによる救いが全世界の人々の上に訪れたことを指します。主にある回復と一致、平和が世界の全ての人々の上に与えられますように。在主 牧師 山本龍一郎

2019/06/02 Sun 主日礼拝

宣教: 霊の導きに従って歩む
聖書: ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ガラテヤの信徒への手紙5章22-23章

 十字架で死なれたイエス・キリストの死は私の罪のための罰であったことを霊の働きによって悟らされる際、人間は神が愛であることを知るに至ります。愛は忍耐強く、情け深く、妬むことがないとパウロはコリント書に綴っております。私たちが生きる社会においては人が集まる場所で必ず競争原理が働き、人間同士のつばぜり合いが生じます。そのような刺激が契機となって研鑽と成長への促しとなればよいのですが、争い、不和、ねたみという具合に他者に敵意を抱くようなになりますと人間の心身は疲弊してゆくものです。キリスト教会で私たちが、兄弟姉妹と互いに競争し合うかたちになった際に多くを学ぶことができます。互いに連携すること、譲り合い、分かち合うこと、それらは神様の霊の働きによって与えられる喜びです。キリストの愛をもって互いに忍耐し協力を重ねてゆく際、夫々が主にあって結び合わされ神の教会として麗しく喜ばしいものとされてゆくことでしょう。主イエスを喜ぶことは私たちの力です。在主 牧師 山本龍一郎

2019/05/26 Sun 主日礼拝

宣教: イエスに導かれて生きる
聖書: ヨハネによる福音書21章1-14節

「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。21:12 イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」ヨハネによる福音書21章11-12節

 私たちが歩む先にどのような未来が待ち受けているのか、明日のことについては誰も知り得ることができません。だから明日のことを思い煩うなと主イエス様は弟子たちに語られ、今を生きる私たちにも語り続けます。十字架で死に墓に葬られたイエスは復活の後、弟子たちの前に現れたと聖書に記されています。師を失った弟子たちの多くは元々ガリラヤ湖畔で漁を生業とする者たちであったことから、彼らはエルサレムから再び自分たちの地元に戻り船を漕ぎ漁に出た際に再び復活の主イエスと出会ったと記録されています。その夜、彼らが打った網には何の魚も入らなかったが、そこに現れたイエスが指示した場所に網を打つと153匹もの大きな魚で一杯になったと記録されているのです。この153匹の魚とはガリラヤ湖に生息してた魚の全種類を含むと解釈するのであれば、この事象は、やがて福音はイエスの弟子たちを通して全世界の人々の上に宣べ伝えられることを示唆した出来事であったと理解することができます。そして主イエス様が弟子たちに朝食を準備されたことから、神は私たちに人間をこよなく愛しておられ、日常における必要を満たして下さる故、思い煩う必要は何もないと解釈することができます。神の豊かな祝福と導きの中で、平和と希望と感謝に生きる一週間の歩みとなりますようお祈りいたします。牧師 山本龍一郎

2019/05/19 Sun 主日礼拝

宣教: あなたは私の子ども
聖書: ガラテヤの信徒への手紙4章19節

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。」ガラテヤの信徒への手紙4章19節

 イエス・キリストが十字架で処刑された後、直ぐにキリストの復活を信じた使徒たちを通して福音は全世界へ向けて宣べ伝えられてゆきました。その50年後、ガラテヤ地方のユダヤ人会堂においてパウロとバルナバが、新しい聖書の教えを説くことによりキリストの教会が興されました。そのことに危機感を覚えたユダヤ教徒たちは、新しい教えを阻止することに全力を尽くした思われます。その後、パウロの伝道を通して興されたガラテヤ教会は時間の経過と共に再びユダヤ教の教えに基づく形態に戻っていきました。パウロは我が子のように大事にしてきたガラテヤの人々の心が移り変わってゆくことを寂しく思い、キリストの愛と恵みに基づく情熱をもってこの書簡を綴ったのです。律法は人が生きるべく道を示しますが、それを守ろうとする人の努力だけによって、人は完成へと至ることはできません。一方、神の愛は人の心を癒し、強め、人を造り上げることがおできになります。それは聖霊の豊かな働きによることです。牧師 山本龍一郎

2019/05/12 Sun 新入生歓迎礼拝

宣教: 心、健やかに育まれて
聖書: マルコによる福音書8章14-21節

「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。」マルコによる福音書8章14-16節

 古代イスラエルの時代に一般家庭でパンを作るために使用された天然酵母は生のパン生地として保存していました。発酵過程では善玉菌が増殖することで炭酸ガスが発生します。自然界におけるこのような発酵とは不純物、即ち「悪いもの」が増殖してゆくこととユダヤ人は理解していました。発酵食品も温度調整を間違えますと腐敗してしまいます。イエス様が宣教された時代、多くの人々が天からのしるしを求めました。メシヤ(救い主)が到来する際に破壊的、奇蹟的なことが起ると多くの人が思い、それに呼応するように偽メシヤが大言壮語しました。その時代の世相や価値観に弟子たちの心が絡め取られている様子に対してイエスは警鐘を鳴らしたのです。今日、資本主義の下、日本の経済は物質的に恵まれ豊かになりましたが、人々の心と魂の部分は置き去り状態です。人の心と魂を養って下さる神の霊は今も働き、私たちを慰め、確かな愛と希望に基づく兆しを日々の生活の中に増し加えて下さいます。今日から始まる一週間、私たちと神が共にいて下さいますように。牧師 山本龍一郎

2019/05/05 Sun 主日礼拝

宣教: 心の目が開かれる
聖書: ルカによる福音書24章36-49節

「あなたがたはこれらのことの証人となる。49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」ルカによる福音書24章48-49節

 十字架で死に墓に葬られたイエス・キリストは復活し、弟子たちの前に現れた。弟子たちは喜びのあまり、そのことを理解できず不思議がっていたので、イエスは焼いた魚を彼らの前で食べたと記されています。主イエスは今も私たちの日常生活の中に来られて、生きるための励ましを与えて下さいます。但し、復活の主が弟子たちの前に端然として現れたことには目的がありました。彼らが上からの力に覆われて、復活の主の証人となって福音が世界中へ運ばれてゆくという計画を神は備えられたのです。順風満帆の人生であっても、そうでない時にも、私たちの傍に復活の主がおわれると信じて歩むのであれば、そこに神の祝福の道は既に備えられています。私は主によりて心が開かれ、上よりの力を受けることによって、人として生きるべく道に立つことが出来るのです。現実は厳しくとも十字架の主を仰ぐのでああれば、そこに神の愛と命が溢れています。 牧師 山本龍一郎

2019/04/28 Sun 主日礼拝

宣教: 主の食卓に招かれる幸い
聖書: ルカによる福音書24章13-18、28-35節

「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」ルカによる福音書24章31-32節

 十字架で死なれた主イエスが墓より復活されたという知らせは、瞬く間に弟子たちたちの間に知れ渡りましたが、この日、エルサレムからエマオに向かって出立した二人の弟子はそのことを知らず心暗くしていました。愛する人の死は、それを悼む人に悲哀をもたらせます。死は人生の意味を無味乾燥とさせ、虚無の果てへと私たちの心を導きます。しかし、イエスは既に復活されて、この二人の前にも現れたと聖書は証言します。神様は憐れみ深く、愛と忍耐に富むお方であり、失意のどん底にいる者を顧みて下さいます。十字架のイエスの死を視野に置いて未来を見据える人には必ず復活の主イエス様との再会、神の食卓に招かれる幸いが準備されているのです。私たちの元気の源は死に勝利された主イエス・キリストから与えられる真の力です。牧師 山本龍一郎

2019/04/21 Sun イースター礼拝

宣教: 死に勝利されたキリスト
聖書: ルカによる福音書24章1-12節

「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」ルカによる福音書24章7節

 週の初めの日、日曜日に婦人たちは敬愛する今は亡きイエスへの最後の務めとして、その遺体に香料を塗るために墓へと急いだ。しかし、そこにイエスの亡骸はなく、神の栄光に輝くみ使いはイエスの復活宣言を彼女たちに告げた。イエスの死を思い起こし、偲ぶための世界で最初の墓参りの日は十字架で敗北されたイエスの死を嘆き悲しむのではなく、復活の勝利を祝う喜びとなったのです。この世に生を受けて、育まれ人間とされてゆく私たちは生きながらも常に死を身にまとっています。よって人間は積極的に夢や希望を心に抱きながら生きると同時に、死に対する準備も備えてゆかなくてはなりません。神は御子イエス・キリストによってその死を滅ぼされました。神は罪の結果の滅びとしての死を人間に与えられましたが、その死の内に神は憐れみと情熱的な愛をもって新しい生命を生みだされたのです。神様は私たちが滅ぶのではなく、救われて、創造主なる神を賛美しながら永遠に生きることを望まれたのです。「人の子は十字架につけられて死に、三日目に復活する」、このイエス様の宣言を私たちが自分の心の中心に置くのであれば、人生は必ず明るく希望あるものとされてゆきます。イエス様のご復活を心より感謝いたします。牧師 山本龍一郎

2019/04/14 Sun 主日礼拝

宣教: ピラト、群集の鬱憤を晴らす
聖書: ルカによる福音書 23章13-25節

「ピラトは三度目に言った。『いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。』ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。」ルカによる福音書23章22-23節

 ユダヤ三大祭の中で最も盛大な祭り「過越しの祭り」に詣でることは2000年前のユダヤの男子にとっての最大の関心事でありました。その祭りではローマ総督による裁判の公開、毎年の恒例の恩赦が見ものとされていた。ローマ帝国に支配されるユダヤ地方には法治の権限が許されていなかったため、総督ピラトの手にその権限が委ねられていした。ピラトはイエスを十字架に付ける理由が見出せず、彼を釈放しようとしたが、群衆は激しく憤りながらイエスの十字架刑を望んだのです。誇り高きローマの栄光である公平な正義は、群衆に横車を押されるかたちで捻じ曲げられ不当な裁判が行われた。十字架への道こそが救いの基となるよう神がその御子に課せられたことに私たちは驚き、戦きます。闇の力が振るうこの世界の不義の中に神の御心は実現したのです。神の御子はこの世界の罪より人類が救われるための恵み、新しい命です。神様は愛と忍耐をもって私たちを憐れんで下さったことに感謝しましょう。牧師 山本龍一郎

2019/04/07 Sun 主日礼拝

宣教: 瓦解したペトロの良心
聖書: ルカによる福音書22章54-62節

「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」ルカによる福音書22章61-62節

 受難節の只中、私たちは十字架へ進み行く決意をされた主イエス様の苦悩と孤独に思いを馳せながらこの時期を過ごします。弟子のペトロはイエスが受けられる苦難に自分も信従すると言いました。そのペトロに対してイエス様は「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。イエスが逮捕され、大祭司の家に連行されていった際、ペトロは恐怖のあまり、気力も、神に対する情熱の思いも全てを失い茫然自失となります。肉体的、精神的な苦痛と汚辱に身を浸しながら死んでいゆく十字架の恐ろしさがペトロの心を覆い尽くし、彼のペトロの心から神を追い出してしまった出来事となりペトロは慟哭するに至ったのです。神の計らいは弟子たちの願いや思い、そして今を生きる私たちの思いをも超えています。神様は人の心の汚れ、恥をも赦し清めるために御子を十字架で償いのための犠牲として下さいました。神は愛なり。牧師 山本龍一郎