2020年度

2020/5/17(日) 主日礼拝

聖 書: わが魂よ、待ち望め
宣教題: 詩編43篇1-5節

 おはようございます。5月17日、第三週主日を迎えます。今週もこのようにビデオを通して、皆様と礼拝の時を持たせていただきますが、小倉教会は現在、再開に向けて調整し始めております。再び、皆様には教会に足を運んでいただいて以前と同じように、この会堂で一緒に礼拝を献げる元の状態に戻ります。通常のスタイルに戻るということは大変、喜ばしいことでありますが、依然として新型コロナウイルスの終息とまでは至っておりませんので、今後は次のステップとして、新しい世界に順応しながら、感染防止を徹底しつつ、通常の生活を取り戻すというかたちになるかと思われます。ここ数ヵ月、新型コロナウイルス感染防止のため、人々は外出を自粛を余儀なくされて経済活動は停滞し、経済的なひっ迫による困難に直面している大勢の人たちは増加していることからも、再び経済を回していかなくてはならないという実情も私たちにはあります。勿論、教会も例外でありません。私たちが進みゆく未来は、平坦ではなく、山あり谷ありであり、予測のつかない事態や、願ってもいないような危機に直面することも少なくはないのですが、私たちを挫かせるもの、暗い思いにさせるもの、未来に進む行く勇気を失わせるもの、は、聖書によれば経済的なことだけではなく、人間の心、魂に傷つけ、不信感をもたらす、人間の偽り、よこしまな思いによるものです。詩編43編では、詩人が偽りを語る者によって追い詰められ、混乱しながら魂の叫び、喘ぎをもって、神の真と光を求めます。そして、詩人は聖なる山、シオンの山からエルサレムへと神によって導かれ、真実の神を見出し、喜びの賛美を献げ、心から告白します。「御顔こそ、わたしの救い、わたしの神よ。」と。
 この詩は、エルサレムから離された場所で、神を礼拝することができない状況に置かれていた者が、再びエルサレムに連れ戻してくれるように願い求めている詩であり、42編と関係があります。かつて、エジプトで捕囚民となっていたイスラエルの先祖たちの願いと告白でもあり、今日を生きる私たちにとっては、神ではないものを神として崇める者たちの罠、誘惑から助け出して下さいと願う、信仰生活における戦いの詩なのです。人間はお金、栄誉、外見、成功、健康など、現実の自分にとってプラスになるものを求めることは悪とは思いたくありませんが、金銭を追い求めることは悪であるとも聖書は教えています。第一テモテ6:10、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまの酷い苦しみで突き刺された者もいます。」
 初めに神は人間を諸悪の根源として造られたのではなく、息ある被造物の中で最も優れた緻密な存在、この地上で良き管理者として世界を治めよと人間を造られました。しかし、人は神の元から離れ去り、神ではないものを拠り頼みとして生きるようになったため、神から怒りを買う存在となった。義人は一人もいない。全ての人は罪人となったのです。キリスト教は、何かあれば、すぐに罪人よ、神に立ち返れ!とやんやん言うイメージがあって嫌悪感を抱かれる方もおられます。教会で礼拝する自分たちは救われて、それ以外の人たちは伝道される対象者のように扱われ、罪から立ち返るように祈ってますと言われる毎に、教会には行きたくないと思ってしまう方もいます。実は私自身がかつてそうでした。お金だけが、健康だけが、外見だけが、その他諸々目に見えるものが自分を支え、幸せにすると私は考え、路頭に迷い、偽りの言葉に惑わされ、怯え、不安と恐れの中で、自分を本当に生かすものとは何であるのか、誰か助けてはくれないのかと悩み、喘ぎ、求めていたことに気づかされました。
 日本では、以前よりスピリチャルブームというものが起こり、それに関連する書籍やグッズが今も多く販売されています。多くの人が霊的なもの、自分を超える力、目には見えない何かとつながりたいという心、魂の願望に応えるように、日本全国にはパワースポットという場所が出現しました。このような現象は、現代人が如何に肉体も精神も疲れているかということの証左であります。物質的なものだけでは満たされない心の渇き、魂のうめきを満たすものを人間は求めるのです。その願望を解決するには、人間の根本的な問題、生きる意味、目的を見つける他に答えはありません。肉的なこと、霊的なこと、これら二つは、神によって造られ、与えられている故に両者は有機的に連結すのであれば、真の人間とされます。ところが私たちが生きるこの世界は、人間の強欲や争いが絶えない場所であるように、目に見えるもの、自分に利益をもたらすものだけが人間を幸せにすると惑わす世界です。神ではないものが、甘い香りを放ち誘惑する世界において、人間は躓き、堕落することがつきものです。悪に絡めとられ自らを失えば、人間は何かの奴隷となります。そのような人間の実態を神様は憐み、悲しまれます。私たちが人間に躓く原因とは、神でないものを神とするような自己中心的な思いで生きる結果、自ら掘った罠に落ちるということです。でも、神様はそのような私たちを見捨てずに、愛と憐れみをもって救い出して下さいます。
 「詩編43:5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」 この世に生を受けた人間は、成長して、大人になって、独り立ちし、その先、どこに向かって行くのか。若い時、多くの人にとっては選択肢もありますし、チャンスも多い、新しい生活への期待も色々と持てますが、そのような楽しみや、期待も持てない現実の中で混沌とする際、生きる意味と目的が分からないということは大変悲しいことであり、大きな問題なのです。何をしても満たされないという魂の呻きは人間の心を徐々に蝕み、希望なき思いへと至らします。しかし、求める者は最後に見つかるのです。「御顔こそ、私の救い」。このことは神と相まみえることができた人の感動であり、永遠という時間、世界を造られた神にのみ望みを抱く、これこそが人生の目的、人間が生きる意味であるといえます。その方は、光であり、私たちの暗闇を照らし、全てを明らかにして下さいます。私たちの過ちをも炙り出し、清め、赦し、再び新しく生きよと優しく神のお言葉を語られるお方、主イエス・キリストです。神は、御子イエスを、信じる者のための生贄、犠牲、身代わりとしてこの世に贈って下さり、イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死に、墓より復活されました。死んだも同然の私たち人間の罪がキリストの死によって赦され、新しい復活の命に与るようにと、神は御子をこの世にお遣わしになったのです。そのことを知らされ、信じることは私たちの力であり、それは神様が与えらる恵み、祝福です。私たちは、自ら、渇く心と魂に命の水を湧き出させるために、自ら努力するかもしれませんが、その努力の思いを全てを神様に向けましょう。なぜなら真の命は神様が私たちに与えて下さるからです。祈りましょう。在主 牧師 山本龍一郎

2020/05/10 Sun 主日礼拝

宣教: 恵みによる救い
聖書: 使徒言行録15章6-11節

おはようございます。5月10日の主の日を迎えることができました。小倉教会で通常の礼拝を中止してから丁度一ヵ月が過ぎようとしております。今、このように動画を通して皆様と一緒に礼拝のひと時を過ごすかたちにも慣れつつありますが、あまり慣れすぎてはよくないと思います。やはり、多くの人と一緒に集まって礼拝を捧げることが大事だと思います。何故なら、神さまは聖霊であり、人の心に働きかけて、共に集まる礼拝を求めておられるからです。人の思いは過ぎ去りますが、神の言葉だけはいつまでも残ります。いつかは過ぎ去る人の思いや、人の言葉に望みをかけるのではなく、決して消え去ることのない神のお言葉に望みをかけるのであれば、人はいつまでも生きると聖書は約束しています。今、コロナ疲れで気が滅入っている人が増えています。経済的な困窮、明るい兆しが見えない中で、誰もが混沌とした気持ちで過ごしているではないでしょうか。様々な疲れの中で誰もが汲々とした思いの中で耐えています。忍耐と試練にどのような意味があるのか、目的があるのかが判然としないのであれば、人は失意の中に、希望なき思いの中に徐々に沈んでゆくものです。
 2000年以上前、ガリラヤの湖で漁をしていた者たちの中の一人がペトロでありました。彼は、エルサレムから見れば、辺境の地であるガリラヤという地方の生まれ、何の肩書もない素朴に暮らす一介の漁師であったのです。そのペトロに声をかけらたのがイエスさまでありました。イエスは、ペトロとその兄弟、そして他の漁師たちにも声をかけて、彼らを弟子、後の使徒(神により遣わされた者たち)とされたのです。「あなたがたを、人間をとる漁師にしよう」とイエスは彼らを選ばれたのです。師であるイエスに弟子入りする入学試験があったとしたら、どのようなものだったのか。彼らが漁師として見事な腕前を披露したということだったのでしょうか。いいえ、そうではありません。見事な腕前を披露したのは漁師でなかったイエス様であったことから、彼らはイエス恐れ敬い、従ったのです。その目的は。詳しくはマタイによる福音書4章、ルカによる福音書5章をお読み下さい。

 「異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられた。」使徒15:7-8a 聖霊とは、神の風・神の息ということが元の意味です。ヨハネ20:22、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」、創世記2:7、主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。神は、福音の言葉をキリストの弟子、使徒とされた者たちに託し、異邦人、すなわちユダヤ人以外の者たちを信じる者として、招き入れられたと証言しています。その証拠となるものが聖霊が彼らの上に与えられたということです。何だか不思議なお話ですが、彼らの上えにとは天から降り注いできたようなイメージを私たちは心に抱きますが、ギリシャ語では通常、エンという言葉が使われています。英語ではINとなります。ですから、正確には彼らの内側にということです。神の息、聖霊はユダヤ人以外の人達の心の内側に入って下さったということ、その証左として、彼らはイエスを主、キリストと信じたということです。ところが、ユダヤの中心地、エルサレム教会の中には、元厳格なユダヤ教徒のものがいて、彼らが誇る古き良き慣習、モーセ律法の全てを、その救われたとする異邦人信者にも守らせるべきだと彼らは考えていたのでした。仕来り、慣習、それらは家を守るため、大きく表現すれば国を守るためにご先祖様から受け継がれた良いものであり、それを破ることはご法度などということに、私たちは直面することもあります。日本では、仏教にはその仕来りがあり、神道には仕来りがあり、キリスト教には日本独自の仕来りのようなものがある。時には違和感を覚えたり、時代錯誤と思しきことが今も続けられていることもあります。世界を見渡してみますと、今、コロナ感染防止対策で各国は空も陸も封鎖している状況ですが、世界はネットで繋がり、金融・経済も互いに繋がっているグローバル経済となっています。国々は互いに観光客としての外国人の誘致に積極的となり、歓迎します。その結果、多くの国は観光客を受け入れ易い環境を作ることを準備、より多くの人々が喜んでくれるものを提供する。外国人でも食べれる食事、文化へと変質していきます。国々のグローバル化は、自国利益第一主義であり故に、独自文化や古き良き慣習は過去のものとして存在価値が低くされ(後継者不足もあり)、現代風という謂わばもどきが提供されるような世界に変わっていっています。勿論、そうでない方や、国もあるかと思いますが。なかんずく、2000年前のユダヤ人は厳格でした。妥協しない、迎合しない、モーセ律法が中心・土台とした教会づくりをすべしと考えた人がいたのです。ところが、ギリシャ・ローマ方面へ宣教に遣わされた弟子たちは、異邦人社会の現実の生活・文化・歴史を目にし、神は彼らの文化・生活をも重んじておられることを知らされ、最も大事なことに気づかされていったのです。パウロとバルナバはエルサレム教会に異邦人の救われた人には、次の三つのことだけを守らせればよいと訴えました。
①偶像的なものに心を囚われ、それらを寄り頼みとしないよう気を付けること、②みだらな行いをしない、③絞殺した動物の肉と血を避ける。これら三つ、神の御心、み旨を聖書かた求めるのであれば、その内容は判るはずです。嘘つかない、強欲、傲慢にならなないということです。神の強さによって弱くされる、キリストにあって自己放棄することです。ペトロはエルサレム教会の保守的な人たちへ言いました。「信仰とは神の恵みと愛によって自己を放棄すること」と、一方で保守主義の人たちはいいます。「信仰とは律法を守ることによって愛を勝ち取ること」と。エフェソの信徒への手紙3:8でパウロは告白しています。「この恵みは聖なる者たちの中で、最もつまらない者である私に与えられた」と。自分の過ち、罪の悍ましさ、神に逆らって生きた過去の痛みをパウロは痛感すると同時に、神によって赦され、愛されていることに深く感謝していたのです。ことわざで、嘘は泥棒の始まりという表現があります。なぜ、嘘をつくのか、真理や光よりも人間は悪を自ら好み、暗闇の中に置かれているからです。神でないものを神のように崇めて、それが自分の欲求を満たしてくれる、自分にとって都合の良い神を人間は作り出します。信仰心ある人も、ない人も全ての人は、この地上に生きる限り誰もがこの誘惑にさらされています。そのために、誘惑に負け、強欲に身を任せ、過ちを犯してしまうのが人間であり、それを隠すためにうそぶくという生き方に至ってしまうのであれば、負のスパイダルの中に陥り、悩みと不安は解消されることなく混沌が続くことでしょう。キリストにあって自己放棄するとは、世捨て人となることではありません。自我や欲望の思い、自分自身の正直な思いを信仰によって神に委ねる、告白する、祈るということです。神の強さとは、イエスがキリストとして高められるまでに、最も弱く、小さくされた、無力とされたことに私たちが目を向け、自分の弱さをそのイエスの十字架に重ね合わすのであれば、神が御子を復活させた新しい命によって、私たちをも強くしてくださるという逆説的なことです。その命は、私たちの行いや功績によって与えられるものではなく、無償の愛、無償の恵みです。神の恵みはひも付きではないからこそ、素晴らしいのです。この世界は、持てる者、持てない者が、分断されてしまう世界です。ここ最近はコロナ分断があらゆる場所で生起しています。差別、区別、優劣意識の芽生え、それらは古から為政者が政治利用するために用いた手段であり、覇者の独善を保持するための手法でありましたが、今の政治家は誠実に、霊と真をもって神に仕え、人に仕える者となっていただきたいと祈念いたします。また、私たち自身も聖霊を我が心の内側に日々、迎え入れて、神の御心、み旨に敵う者として神に仕え、人に仕える者となれますようお祈りいたします。在主 牧師 山本龍一郎

2020/05/03 Sun 主日礼拝

宣教: 聖霊の聖めに与る
聖書: 使徒言行録8章14-24節

 5月3日の主の日を迎えることができました。本日も、皆様と礼拝のひと時を持てますことを心より感謝いたします。昨日は、夏日となるほどの暑さを感じる日となりました。草花は太陽の日差しを受けて、より一層新緑が眩しくなる季節です。私たちも神様の光に照らされて、心身ともに強くされて、喜びと感謝に満たされて、神のみ名を褒めたたえることができるようにと願います。今日もみ言葉から学んでいきましょう。
 今朝の聖書箇所は新約聖書の使徒言行録からです。使徒とは英語でアポスル、門弟・弟子・門下生という意味です。誰から教えを受ける立場にある人のことです。使徒たちは誰から教えを受けたのか、それはイエス・キリストからです。イエス様は彼らを選び、悪霊を追い出す権能を授け、彼らを通して福音、良き知らせを世界中の人々の上に伝えることを計画されたことによって、彼らに使徒という名称が与えたとマルコ福音書3章14節には記されています。そのようなことからも、彼ら、使徒とされた者たちの根源的な意味は、神より派遣された者たちということになります。神より派遣された宣教者としての自覚、神によって命じられたという確信が彼らの思いの中にあり、彼らの言動の中に神のしるしが伴い、宣教は押し進めてられてゆきました。
 使徒の一人、フィリポの宣教によってサマリヤの人たちへ神の言葉が伝えられました。その時代から4、500年前に起きたイスラエル南北分断後の両国滅亡、所謂バビロン捕囚という悲劇が起きた後、解放者ペルシャのキュロスによって、多くの人々が再び祖国に帰還することことが許されるのですが、北側、サマリヤにいた人たちと、南側エルサレムにいた人たちとの融和は実現されず、互いに交際しないという不仲になっていました。そのような状態に至るまでに、いくつもの争いがあり、当時の人々にとっては悲劇であり、歴史の痛みでもあったのですが、その根本的な原因は、イスラエルの民の神に対する罪の結果であると聖書は言います。神ではなく、人間や武力を拠り頼み、彼らは近隣諸国と争い、自分たちの進むべき道を誤って、迷える民となった聖書は言います。イエス様は、人間同士の間で生じる分断、分裂、争いによって生じた憎しみ、十字架によって完全に赦し、清め、和睦を創り出すことがおできになります。サマリヤ人が福音、即ちイエスを信じるという信仰を受け入れたということは、まさに神による奇跡であり、人間ができることではありません。神様は使徒たちを通して、福音宣教されたのです。ペトロもヨハネもサマリヤに下りました。ところが、そのサマリヤの人たちは、聖霊を受けていなかったと書かれています。そして、その地域において魔術を生業としていたシモンという男が、使徒たちが人々の上に手を置くと彼らが聖霊を受けたので、お金を出すので自分にもその力を授けて下さいと申し出たと書かれています。

 ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。8:21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。8:22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。8:23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」8:24 シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」(使徒言行録8:21-24)

 神を信じるということは、どのようなことなのか。自問自答してみますと判ります。目には見えず、感じることも出来ないもの、奇跡の神話のような話であれば、世界中には数えきることができない不思議な話がありますし、唯一の神がいるとは思えないようなこの現実の世界の中で私たちは四苦八苦しながら懸命に生きています。今、世界中が新型コロナウイルスの脅威に晒されて、汲々としています。世界の誰もが自国の経済発展を願い、未来の生活はよくなってゆくと信じながら、励んでいると思われますが、同時に誰もが避けて通りたい災いが、起きるかもしれないという不安の中で生きています。コロナの感染者は日本では現在も、更に増えていますし、亡くなられる方も減少しているとは言えない中で、もはやこれは他人事ではなく、全ての人が当事者であり、自分たちに影響する状況となっています。サマリヤの町で、魔術師として生活をしていたシモンは詐欺師だったのでしょうか。今日でも占いや、手相、魔術的な力に魅了されて、元気になる人たちがいるように、2000年前のサマリヤでも、そのような人たちは大勢いたようです。不思議な魔術による幻惑は多く人たちにとっての慰めや力の源として、受け入れられていたのかもしれません。シモンという魔術師は、使徒たちを通してサマリヤの人たちに与えられる聖霊(神の霊)を自分にも譲ってほしいと正直に申し出ます。このことは、神を信じる=神の力を受けて更に自分の生活もよくなるという発想ではないか。キリスト教はご利益信仰ではないと言いますが、人間の心と体は、単一で素朴・純粋な思いによってだけで成り立っているものではありません。クリスチャンであっても病に掛かれば、必死に癒しを祈りますし、その苦しみ痛みが神の御心なのですかと神様に問いかけます。経済的困窮に陥れば、必要が満たされますようにとも祈りますし、自分が生活してゆく日々の必要が与えられるように祈れとイエス様も勧めています。聖霊とは?それは私たちの目には見えませんし、愛も恵み同様に見えません。感じるものなのでしょうか。たとえ感じたとしても、それが本当に聖霊なのか私たちは、簡単に判断することはできません。
 では聖霊は何であるのか。聖書の神様の言葉を信じ、それに従うということを誰よりも為さったのは、イエス様です。その方は罪を犯さなかったとも記されています。イエス様はどのような人をも憎まず、貶めず、呪わず、危害を加えるようなことをされず、只、御父なる神様のお言葉にある自分に課せられた使命を果たされたお方、キリスト、救い主です。その方は、自分が生きる意味、目的、帰るべき場所、全てを知っておられました。神が為さることに自分を置かれたのです。だから、神の目に正しいのです。
 私たち、この地上で呻きながら、不安と恐れを心に抱きながら生きる故に、神の言葉を知りながらも、それに従わず、それを忘れて、彷徨う故に、神の目には正しいとは言えない存在であるといえます。何を第一として生きれば良いのか、混乱していることこそが罪の中に留まっているということです。シモンという魔術師は、自分を凌駕する使徒たちの存在に脅威を感じたことでしょう。自分に対するサマリヤの人たちからの関心を失えば、この先、自分の収入に影響するので、その使徒たちが人々に与えた聖霊を自分にも分けてほしいと思ったのでしょう。人間は、日々の糧のことで思い煩うものです。家族がいる、会社経営しているのであれば、従業員もいる。誰もが今日の必要を第一と考えたくなるものです。しかし、聖霊は、そのような人間の現実の生活の必要を得るための手段ではありません。神の霊であり、イエス・キリストであり、父なる神様が聖霊です。聖霊は、唯一の神様、愛と恵に富まれる神様の人格を確信させる霊です。その霊は、私たちがこの世界の現実で日々、悪より離れて、神の義を求めて生きること、憎しみや怒りより離れて、神の赦しによる平和と希望の内に生きること、信仰がなくならないように生きるようにと励まして下さる方です。ですから、それを商業利用のために用いるということは、よくないことなのです。もし人間が聖霊を商業利用するのであれば、その人は人を恐れて、神を恐れずという結果になり、その人は傲慢になり、最後は行き詰ってしまうことでしょう。それは本人にとっても、神様にとっても滅びの現実となるのです。神はそれを望まれません。聖霊は、イエス・キリストを確信させることがおできになります。イエスとは、キリストとは、私の友であり、私の救いであると人間に証言させるお方です。その霊を私たちは無償で受けて、信じる者とされます。
 日々の人間の営みも大事なものであり、未来の人々のためにも、世界の国々の環境は整えられてゆく必要がありますが、神の国と神の義を第一とし、現実の生活をその次に大事にするのであれば、私たちは世の混沌に迷い込み、悪魔の罠より守られることでしょう。今、コロナの影響で、経済活動が停滞したことによって、世界の国々の大気汚染が大幅に減少し、川や海の水質も日ごとに良くなっているといわれます。人間が意図しなかった要因で自然環境が浄化されてゆくように、私たち人間の心も魂も、神の御人格である聖霊を受けて、日ごとに清められ、つくり変えられてゆくことに期待するのであれば、この先の未来は明るくなることは間違えありません。今週も、キリストという不動の岩の上に、しっかりと足を据えて、それぞれご自分の人生をスタートさせて下さい。在主 牧師 山本龍一郎

2020/4/26 Sun 主日礼拝  

宣教: 袋小路から始まる未来
聖書: 民数記14章1-10節

 今週も皆様と主の日を迎えることができました。皆さん、一週間、お元気で過ごされましたか。私たちは共に耐え忍ぶしかない日々を過ごしております。この先、どうなってしまうのだろうかと誰もが不安を感じながら過ごしていますが、そのようなことは、3000年以上前にエジプトからパレスチナ地方へと神によって導き出されたイスラエルの民も経験されいることです。彼らの不安と恐れに目を留めてみますと、その苦労は大変なものであったことが分ります。エジプトで苦役を課せられたイスラエルの民の呻き声を聞かれた神様は、彼らをそこから救出し、約束のカナン地方へ彼らを導くためにモーセというリーダーを立てられました。モーセに民は従い、彼を通して神は大いなる御業を現したといえます。そのことはかつて、この地上の全ての民の中から神によって選び出されたアブラハムと神様が交わされた契約に基づく出来事であり、神様はイスラエルという民を通して、ご自分の契約を成就させるために、エジプトからカナンの地に、彼らを導き出されたのでした。カナンへの入植を目の前にして、モーセも、その兄アロンもヌンの子ヨシュアも皆、不安と恐れに駆られるのですが、彼らは神様への信仰をもって前進して行ったことが民数記には記録されています。
 乳と蜜の流れる地、そこは現在のイスラエル辺りであり、そこには既に豊かな文明が開化し、豊かな作物が実る大地も含まれる潤った場所でした。モーセはヌンの子ヨシュアと他に何名かをカナン地方偵察のために遣わし、そこが豊かな土地であることを確認したのですが、豊かな地域であるからこそ、自分たちが入植すれば、数々の民族と武力衝突するに違いないとイスラエルの民は恐れたのです。荒れ野での40年の試練の旅路の先に、カナンでの紛争が見込まれるというは、共同体全体にとって更なる不安と恐れとなり、民は夜通し泣き言を言った。「神は自分たちを剣で倒すために、ここに連れてきたのか。そうなれば妻も子も奪われてしまう。エジプトに帰る方がましではないか」と考えたのです。まさに、進んでも苦難、引き返しても苦難となることが想定される中で、彼らは立ち止まり、モーセもアロンも沈黙して会衆の前で、神にひれ伏すしかない状況となりました。一方、偵察部隊となったヌンの子ヨシュアは、民に対して前向きな意見を述べます。「我々が神の御心に適うのであれば、主はあの土地に導き入れて下さる。恐れてはならない」と。民は怒り、その意見を聞こうとはしませんでした。神に選ばれ、神より授けられた律法によって、他の民とは違う特別な民とされたイスラエル、彼らは神の目に特別な民であったにも関らず、彼らの歴史の多くは過酷なものとなりました。エジプトでの苦役を課せられた捕囚の時代、後のバビロン捕囚、紀元70年のユダヤ戦争、近代ではナチスドイツによるユダヤ人大虐殺という試練、塗炭の苦しみを経験した民であることは事実です。もちろん、他の国々の人々もそれぞれの歴史の中で同じような苦しみを経験しているとも言えますが。今日の世界では大きな戦争が起きれば、この地球上の全ての国がその紛争に巻き込まれてしまいます。第二次世界大戦がそうでした。そして、恐ろしい疫病が蔓延すれば、同様に瞬く間に全世界の国々へと広まってゆくことを、今私たちは身をもって経験しております。どんなに科学や医療が発達しても、人類は常に新しいウイルスの脅威に晒されているといえます。そして、経済活動が衰退し、誰もが汲々となり、世は荒廃し、争いが引き起こされるというサイクル、歴史は常に同じことを繰り返すといえます。今、一カ月以上、誰もが不要不急の外出を控えて、自宅に留まることをせざるを得ない状況となりましたが、出不精の方は何とかなっても、そうでない人にとっては、時間が止まってしまったような感覚に囚われてしまっているのではと思ったり致します。毎日、自宅で同じことを繰り返す、恐れと不安の中で。この先にどのようになるのか、誰にもわかりません。そうです。私たちには、明日のことは分からないのです。明日を思いわずらってはいけません。明日自らが思い悩むからです。神様はイスラエルの民を選び出し、彼らを通して、自身の計画を成就することをなされました。彼らが嘆き、恐れ、立ち止まり、不安の中で自暴自棄になりかかった際、神は彼らの前にご自身の栄光を現わされたのです。その栄光とは、人間が神が常に私と共におられるという確信を得るに他なりません。神が共におられるという慰め、それは錯覚や幻想に過ぎないと、一蹴する人間の理性主義も私は否定はしませんが、それでも聖書の言葉が生きて、多くの人を励まし、慰め、罪を暴き出し、死から生へと人々を導き続けている書物であることは事実であり、神は生きていると証しする人々が今も呼び起こされている故に、100パーセント神はいないとは言い切れないのです。
 神はイスラエルの民を通して、ご自身の計画を成就させることをお決めになりました。その目的は、全ての国々が真の神の臨在を知るためであり、大いなる救いに与り、悪より立ち返り、神のみ名を称えるようになるためです。モーセとアロンと、ヨシュアと一部の者たちを除いて、民のほとんどが恐れと不安の中で、エジプトに戻ろうと考えました。恐れと不安は、人間の情念を高める引き金となります。勿論、そのような負の力が有効的に芸術や音楽に反映されて、人間にとって慰めを齎すものを生み出す結果に至ることもありますが、人間の情念が、神から人間を引き離すのであれば、人間は神ではなく人間に従うという結果に至り、自ら滅びの道に進みゆくということも起こります。神でなく人間を神のように崇める、頼るということを第一主義とするのであれば、その人は闇の中を手探りで生きるという状態になるのです。そして、人間が人間に不信感を抱き、絶望するのであれば、その人はもはや人間でなくなるということです。実に恐ろしいことです。どのような時にも、神の国と神の義を求めるということが、如何に大事なことなのかを、恐らく私たちは自分にとって大事と思っていたものを失う際、気づくものです。自分の正しいと思っていた判断が誤りであったということから、人間は多くを学ぶのです。モーセは約束の地であったカナンに入ることは許されませんでしたが、その思いはヌンの子ヨシュアに引き継がれていきました。そして、ダビデの時代を経て、キリスト・イエスに至りました。神はキリスト・イエスを通して、人間を正しい道に連れ戻されます。キリストは、私たちが頑なとなり、自分の正義を振りかざして他者を裁く、蔑ろにする、利己的な生き方において引き起こされる人間の罪の実態を暴き出し、その罪の身代わりとなって自らが十字架で犠牲となったことを確信させることがおできになります。罪の内に生きる者が、恵によって神は愛であったことを知るようになり、永遠に神のみ名を賛美するようになるためです。今、行き詰ったような閉塞感を誰もが強く感じます。その閉塞感の中に神は共におられます。その神様は、静かに私の時を待ち望むようにと優しく声をかけて下さるお方です。恐れと不安の中で、良いものを選び取ってください。主の恵みと慈しみを思い出しながら今週も、主にすべてをお委ねしながらスタートしましょう。牧師 山本龍一郎

2020/04/05 Sun 主日礼拝

宣教: 苦しまれた神の子
聖書: マルコによる福音書15章33-41節

「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15:34-35)

 全世界を震撼させている新型コロナウイルスに脅威の下に晒されている私たちの生活が再び神の御心にかなうものとなりますように祈り願い求めます。主イエス様は「目を覚ましていなさい」、「心は燃えていても、肉体は弱い」と弟子たちに教えられた後、立ち上がり十字架へと向かいました。この教えは、一時的な感情や感傷的な思いに駆られて自分の願いを実現するような祈りを献げるのではなく、私たちが神のご計画に沿った祈りに徹し、確かな日々を生きるようにとの勧めです。どのような状況下においても、信仰者は常に神を忘れずに生きるということを第一とすることです。そのような信仰者の姿勢は、世が欲する願いから浮世離れしていると思われて、嘲られることもあることでしょう。不利益を被ることもあるかもしれません。しかし、キリストのために苦しむ機会を与えているのは神様であり、試練と苦難の中で信仰者は鍛えられ、揺らぐことのない者へと造り変えられゆくのです。嘲られ、見捨てられ、心と体に最大の痛みを負われたキリストの忍耐に目を向けましょう。その姿は、信じる者にとっては神の赦し、励ましであり、復活への希望なのです。牧師 山本龍一郎