2020年度

2020/7/26(日) 主日礼拝

聖 書:ヨハネによる福音書8章31-38節
宣教題:真理の内にある自由
 
 7月26日、第四週主日を迎えます。九州方面は漸く梅雨が終わり、夏本番を迎えようとしております。私たちは季節が変化する毎に、生活必需品を入れ替えたりと準備、整理整頓をしながら、年月が過ぎてゆくことを数えながら、過去を思い、現在を見つめ、そして未来を想像しながら日々の営みを続けます。今、私たちが為すべきことは何であろうかと考えてみましても、こうして日常の生活が制限される時代にあって、人と積極的に交流することを避けながら、静かに生活をする生活様式へと変わりつつあります。このことによって、本来の静かで穏やかな生活をすることができるようになったと考えるのであれば、人間が人間らしい生活を取り戻すための良い機会と捉えることもできます。人類は常に競争原理の下で、経済活動第一主義を掲げて、経済的・物質的な豊かさを唯一の幸せと考えながら未来像を描き続けてきたと思われますが、果たして、本当にそれで人間が幸せになれるのかと考えてみますとそうではないということに気づかされます。無駄な消費生活を抑えて、静かに穏やかに暮らす、今の世界の現状下に生きるすべての人間がよりよき未来を思い描くための機会と捉えることができます。
 今日も、皆様と聖書を学びます。本来、イエス・キリストにあって神が宣教・伝道されたということに倣って、教会も宣教・伝道する使命に立つことが許されていると考えることができますが、こうして毎週の説教で、私たちが聖書を読むということは、より深くその指針がどのようなことであるのかを知らされるということであることから、学ぶという言葉、デダケでよいと思います。イエス様は自分を信じようとしたユダヤ人たちが、自分が語る真理、神の御計画を信じた信じようとしているのではなく、自分たちが意図する現実的な存在の理由、自分たちが望む未来像を信じているということをよく理解された上で、彼らにそのことを教えられたのですが、誰も理解することはできませんでした。彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」と言い放ったように、自分たちが属する民族的な誇りがイエスの言葉に耳をふさがせたと思われます。自分の出自がどこであるのか、人間のアイデンティ、自分らしさに関わることでありますが、それを誇ることで、他を認めない、排除するという高ぶりに至るのであれば、人間は神を誇りとすると宣言したとしても実は、自分を誇り、神はお飾りとなるということです。真理とは、ギリシャ語でアリセイアといいます。自明のこと、不変的な真実といえるでしょう。私たちは、聖書を開き、読みますが、それを自分に都合のよいように解釈したり、好きな聖句だけに目が留まり、これだと悟ったりして気持ちが上昇するのであれば、かなり危険かもしれません。聖書が明日を占う書物として使用されることもあり得るということです。また、教える側に立つものも、自分の論理に都合のよい聖書箇所を引用、つなぎ合わせて未来を語るのであれば、カルト教へと教会は変質していきます。そのような危険性を孕むもの、世の誘惑や、人間の誇り、プライドやらが私たちを真実な神から引き離そうとします。それを一言で「罪」と表現してよいのです。イエス様は、アーメンと自らを吟味しながら明言しました。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」 この宣言は、その場にいたユダヤ人たちにだけ語られた言葉ではなく、今を生きる私たちクリスチャンも、そうでない人へも問いかけている言葉でありあります。あなたは、聖書の言葉をどのように解釈・理解し、何に希望を抱き、どこに向かって生きようとしているのかを、正しく受け取っているのか、よくよく吟味しなさいと神様は愛と忍耐、そして真実、すなわち真理をもって問いかけているのです。イエスに対峙する側に立ったユダヤ人たちは、電光石火の如く現れ、躍進するイエスの言動、姿、その全てを受け入れがたく、闇に葬ると決意していたことをもイエスは分かり、そのことをも指摘されました。2000年前のユダヤ社会は、聖書によって当時の様子が今も生き生きと記録されていますが、日本はそのころは弥生時代です。竪穴式住居に住んでいて、これから農耕社会が発展するという時代でした。それ以降の時代、皇室での権力闘争が始まり階級社会となり、戦国時代は更にそれが激しくなってゆきます。出る杭は打たれるということは、日本の歴史でも、ユダヤの歴史でも同じです。危険分子は、未然につぶしておけという発想は、古今東西、権力者の思いの中に生じる最大の不安要素なのです。イエス様は、臆することなく、神の言葉を語り、その言葉に従い、やがて反発したユダヤ人たちによって十字架につけられて殺されてしまういますが、私たちはそのイエスの孤独、絶望の深み、重さがどれほどのものであったのかを想像してみましても理解することができません。しかし、絶望を経験された人は、そのイエスのみ苦しみを理解するように共感することができます。イエスに出会うということは、人間の孤独の最果てに生じる絶望や、心の痛みや苦しみを、神の子が同様に負われたという事実を知らされることです。罪とは人間の心の奥底に眠る獅子のようであり、ことあるごとにその獅子が目覚めて、自分のために戦ってくれると自己正当化するような部分であります。誰も助けてくれない、希望も平和もない、未来もないという嘆きの思いや不安の思いの内に働く自己中心的な思いから解放されて、自由を得させるために、神は御子イエス様を遣わされたと聖書は教えております。神の真理を知らされることで、人間は真に自由と平和、希望に生きることができるようになります。今、世の中には生きる望みを失いつつある人たちが大勢おります。経済的な困窮、失業、雇い止め、病苦、人間関係の破断と、そこから生じる孤独と不安。人間は弱い存在に過ぎません。「頑張ろう、北九州!」と垂れ幕が小倉駅近くのビルから吊り下げられていました。まだ何とか頑張れる人はいいのですが、その力をも失うのが人間です。そのような人間として、2000年前のユダヤで、悩む人たちと共に過ごし、食事をし、励ましを与えたイエスは、ただの人間ではなく、神と同質・同格の方、神ご自身であったと聖書は証言しています。ですから、何が起きようとも恐れ不安に埋没する必要はないのです。何故ならば、そのような人類が抱える未来への不安と恐れから生じた罪の贖いとなって、御子は死を経験され、復活の命をもって甦り、その罪を完全に滅ぼされたからです。神はキリストによって古き道を滅ぼされ、新しい道を敷かれたのですから、道を整えて備えて下さるのは、私たちの心の内に豊かに働いて下さる神様です。そして神は私を神の言葉に生きる器として、良い業のために用いて下さるので、どのようなことをも恐れたり不安に駆られる必要はないと私たちは考えてもよいのです。神のお言葉に強められて今週も共に躍進しましょう。在主 牧師 山本龍一郎

2020/7/19 Sun 主日礼拝

聖 書:ローマの信徒への手紙8章26-30節
宣教題:聖霊を依り頼みとする

 7月19日、第三週主日を迎えます。今朝も、私たちは礼拝をもって、主をたたえることから全てを開始いたします。そのような宣言と申しましょうか、神様へ対する告白は、本来一人の人間の主体性のある思いに基づいて為されることが大事だと思いますが、神様は、礼拝する者を求めておられること、詩篇と賛歌をもって自身をたたえる者を求めておられる故に、霊は私たちの思いや考えを超えて、豊かに働き、神を礼拝する方向、思いへと導いておられると聖書から解釈することができますので神様の御思いに従って参りたいと願います。押しつけになるかもしれませんがご理解ください。未だ終息するに至らない新型コロナウイルスの猛威を振るう渦中であっても、こうして礼拝を再開することができていることは大変ありがたいことです。この疫病が流行りだした3月頃は、誰もが得体のしれないその病原体に戦々恐々となりましたが、徐々に見えない部分、判らなかった部分が解明されてゆく中で、私たちは応策を講じながら新たな生活様式へと変化させながら歩み出しております。このような困難を強いられる時代も、いずれは落ち着きを取り戻し平穏な時代へと戻ると思われますが、その時まで私たちは心を暗くすることなく、困難で窮屈な生活の中にも喜びと希望を見出しながら、私の人生は素晴らしいと証しする生活を過ごしていきたいものです。人の人生は素晴らしいものですが、その素晴らしさとは一時的なもののようにも思われます。幸福感に満たされる瞬間があれば、その瞬間からそれを失いたくないという思いが生じ、その人の思いは一挙に空しくなる、幸せを失うことを想像して怖くなる、幸せとはそのようなことなのかもしれません。幸せという字は、「仕合せ」と言い表すこともできます。その意味は、人と人との出会いであり、人との関係の中で信頼関係が醸成され、助け合うということでしょう。それは偶然の出会いのようですが、聖書的から解釈するのであれば、そのような人間の様々な出会いの中にも神は豊かに働かれて、ご自身のご計画を成就されるお方であると理解することができます。そのことを証明されたのがキリストです。よって、信仰者はその方に信頼を寄せながら、神と自分との関係がどのようになっているのかを常に確認しながら日々の生活に励むことが真の仕合せにつながる道と考えてよいのです。皆さんはいかがでしょうか。人ではなく、神様との自分の関係を優先していますでしょうか。久しぶりに、教会で再会するこことができた兄弟姉妹との間で、話に花が咲いて盛り上がるのもいいことですが、まずは神様と相まみえるということが大事なのです。
 私たちには、今日のこと、明日のこと、何が起こるかを知ることはできませんが、神様は既に全てを知っておられるということを前提にして、物事を見つめてゆくことが信仰者には極めて大事なことです。先週、私は自動車免許証の更新に行ってきました。優良ドライバー扱いとなりましたので、講習時間は30分程度でした。これまで、試験場で何度も見たことのある内容のビデオを観る内容の講習でした。四つ角において、これまで一度も人が飛び出したことはないから大丈夫と過信してはいけないことや、バスの陰から、人が、自転車が飛び出してくるかもしれないと想像することが大事であり、100%安全はないので様々な危険事態が生じることを想像しながら運転してくださいということでした。しかし、常に「かもしれない」と心配しながら自動車を運転するのであれば、真面目な方は不安な思いで一杯になり、怖くて運転することができなるなることでしょう。その不安を解消する方法を聖書から学びましょう。ローマ8章26節には霊という表現が出てきます。この霊とは「聖霊」、神様自身という意味です。私たちはどう祈るかを知りませんが、神様が助けて下さるということです。言葉にできないうめきをもって取りなしてくださると。霊は心配して切なる思いで、私たちにに寄り添って下さる神であり、キリスト・イエス様であり、天の父なる神様であると聖書は語ります。私たちは未来を予知することができない不安な日々の中で過ごしていますが、その三つで一つなる神様は、ご自身の思い、計画が何であるかをはっきりと分かっておられるので、あなた方は安心して過ごせばよいと常にいわれています。このことは、自分たちが願わない災いに遭遇したとしても、或いは幸福感に満たされる絶頂を味わっていても、どような時にも神は万事を益となるよう豊かに働いておられるので、自分の思いだけで一喜一憂することなく、信仰によって、神に自らの思いを常に委ねて生きようとの勧めであります。この手紙を認めたパウロという人は、現在のトルコのタルソスという町で生まれ育ったユダヤ人です。その地域はヘレニズム文化といわれる異文化に影響されていた場所であり、パウロは学生時代にストア派と呼ばれる哲学にも触れていたと思われます。使徒言行録17:28では、パウロは福音を伝えるためにストア派の哲学者たちに対して、その哲学の詩を引用して反駁しようと試みましたがうまくいきませんでした。その詩は「我らは神の中に生き、動き、存在する」「我らもその子孫である」と記されています。ギリシャ語にロゴスという言葉があります。日本語で言葉と訳すことができますが、その真意は神の理性、神の知性を含む、宇宙における神の秩序ということです。ですから、その中に住む人間の人生にも少なからず、目的や計画、秩序をもたらしていると理解されていました。ロゴスという表現は極めて哲学的な意味を想起させるに有効であり、異邦人すなわち非ユダヤ人に対する福音の伝道に当てはめて使用されたまさに神の言葉です。ヨハネによる福音書1:1では、初めに言葉(ロゴス)があったと、キリストを冠した表現として使用されています。神の理性と知性が調和した秩序、それこそが神による平和であり、その内で人間は希望や喜びに生きることができるようになる、そのことを知ることができなった人たちの心の内に光としてキリストが生き、あなたがたは信じるようになったのですと、パウロは自らの確信と信仰に基づいてこの手紙をしたためています。イエス様は、ユダヤ人にとって希望の星となる存在、ローマ帝国の支配から解放を実現する勇武となって称えられる王様となることを多くのユダヤ人はイエス様に期待を寄せたのですが、自分たちの思いに応えようとされないイエスの言動に失望し、最後は十字架にかけられて殺されてしまいましたが、神様は死んだイエスさまを墓から甦らせたのです。真の神様のご計画とは、イエスの死と復活を通して、身勝手な人間の罪を断罪する方法でありました。神の真実な愛と恵みは人間の罪の中心である自己中心的な思いを打ち砕き、新しい思いである真の命をキリストにおいて与えて下さったのです。本来 私たちは、多分、自己中心的であり、神様の思いとはかけ離れた生き方をしていると私自身思いますし、当然過ちも起こします。また人間関係に躓いたり、躓かせることもあり得ることを認めるしかありません。でも私たちは諦めません。何故、諦めないのか、その答えは、神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたこと、あらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったからです。神様は私たちのことを誰よりもよく知っておられます。しかし、私たちは、神様が意図された計画や使命を拒否する姿勢を心の内に抱いております。それが自我です。自我は、自分の誉やプライドを満たすための満足を優先する人間の根源的な欲求です。その自我を打ち消すために自らの力で戦うのであれば、その欲求は更に増すことが分かっていますので無駄に抗うのではなく、聖霊に依り頼み、自らの思いの真相を打ち明けることが非常に大事なのです。霊的な戦いを通過し、十字架で自ら肉体の死を経験されたイエス様は、私たちの心の弱さ、体の弱さの全てを分かっておられます。神は人間の心と体を造られたお方であり、御子イエス様自身も人間の姿となって地上に現れて下さった方ですから、私たち自身の心と体をも憐れみ、顧みてくださることでしょう。現実の社会で私たち人間は重い腰を上げて、自らの努力で生きるべき道を切り開いているかもしれませんが、実はその背後で神が豊かに働き、その恵みに与る私たちが神を喜び、たたえながら、共に生きるようになることを神様は望んでおられるのです。確かで、明るい希望を既に準備されている神様に期待し、感謝し、神の御心、御旨を求めながら今週も自分に与えられた道を歩んで参りましょう。在主
小倉キリスト教会 牧師 山本龍一郎

2020/7/12 Sun 主日礼拝
聖 書:マタイによる福音書8章1-4節
宣教題:恐れに屈せず主に近づく

 7月の第二週主日礼拝を皆様と献げることができます幸いを感謝いたします。今年も九州では予想を超える豪雨によって多くの方々が被害を受けております。また、その犠牲となられた方々も70名近くなっており、お悔やみ申し上げると共に早急の復興を祈るばかりです。受付に緊急募金箱を置いていますので皆さまからの温かいご支援をお願いいたします。
 こうした中でありましても、私たちは、明日に向かって新しい希望の思いを心に抱きながら歩みだしてゆくしかないと思いますが、今世界中の人たちの心を暗くさせる疫病、新型コロナウイルスの終息が見えず、再流行しつつあるかのような中で、意気消沈する人が増えていると思います。人類はこれまで、何度も感染症との闘いに直面しながら、その時の危機を乗り越えてきたと思われますが、このように長期戦となりますと、心身ともに徐々に蝕まれるように弱くされてゆくような思いになってきます。その弱さの中で謙遜な姿勢となって、自分の人生を学ぶ機会と捉えるのであれば、その人は神の御心の内に生きる者とされていることでしょう。弱さよりも、強さを依り頼みとする私たちは、自分が健康で元気なこと、力漲り、明日に向かって突進するように生きることをよしと考えますが、今は、そのような自分の力だけでは乗り越えてゆくことができない困難な状況下に多くの人が置かれてしまっています。力ある者も、力のない者も、確かなものに望みを置くことがとても重要だと思います。
 今日のみ言葉は、マタイによる福音書8章の記事からです。この出来事は2000年以上前、パレスチナ、今のイスラエルの北部に位置するガリラヤ地方で良き知らせ福音を語り告げ知らせたイエス・キリストと一人の病める者とのやりとりです。イエスとは誰なのか。歴史的有名人であることは誰もが知っていることです。病気に悩む者たちに手を差し伸べて、触れられ、癒されたイエスは心優しく、貧しき者たちを憐れまれたこと、善業をなされたということは中学校の世界史で習うことです。あなたがたは、自分がしてもらいたいことを、自分の隣人にもしなさいと、憎むことよりも、赦し愛することを勧められて、最後は十字架にかかり死なれたのです。そののち、墓より甦った、復活したことを信じた者たちがキリスト者と呼ばれるようになり、キリスト教という一宗教に発展し、今日に至っています。現代社会では、イエスの奇跡よりも進歩した医療や科学こそが人類に幸せをもたらすと誰もが疑わない様相となっておりますが、2000年前の古代の時代には、魔術や星占い・祈祷や宗教儀式が病や災いを追い払うための役割、医療や科学の分野を担っていたと思われます。人間のできる領域、範疇を超える力やしるしこそが、全宇宙を司る神のような存在であると人々は期待し、望みをかけたと思われます。イエスという人物もその例外ではありませんでした。イエスが語れば、人々は沈黙して耳をそばだてました。病に悩み、地域社会の片隅で生きるしかなくなった者たちの嘆きに応えるように、癒しをもって力強く神の言葉を語るイエスのもとに多くの人々は引き寄せられるように、押し寄せたと思われます。今か今かと人々はイエスの言動に目を見張ったのです。
 8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
 皆さんの中でこれまで一度も病気に罹ったことのない人はいますか。いるはずはないと思います。大なり小なり誰もが経験していると思いますし、生まれながらにして病と共に生きておられる方もおられます。私がイエス様を信じるようになったのは20数年前ですが、その頃、過ごしていた場所は東京都板橋区でした。そこの蓮根という場所にある教会へと導かれたのですが、その教会の代表執事でもある岡田兄のことを思い出します。その方はお医者さんです。私が小学生の頃、健康診断の校医として小学校に定期的にお見えになっている姿を目にした私は何となく誇らしげに思えました。何故なら、当時私の母はその教会に通い、私も手を引かれて教会の礼拝に参加していたからです。幼い私にとっては、岡田先生は凄い方という印象であり、その後、私が牧師になった後に、福音宣教の協力をさせていただく等大変お世話になりました。その岡田先生は、幼少期に小児麻痺に罹り、足が動かなくなったという障害を得ていたということをご本人からお聞きしました。戦前の貧しい時代、埼玉の上福岡市の農家の息子として生まれたそうですが、農業は体が資本ですから、親は障害を得てしまった息子に対して、優しく接するどころか、あれこれと農作業をさせられ鍛えられたと述懐されています。リヤカーを引っ張て、あっちこっちと農作物を運搬した思い出を語っておられました。子の未来を憂い、親は愛をもって子を鍛えられたのでしょう。やがて、学生時代に常盤台教会に通い、松村秀一牧師と出会い、キリスト者となり医療伝道への道が拓かれたと聞きます。病によるハンディを得たいと願う人はいません。それは弱さであり、とても辛いことだからです。2000年前のユダヤ地方において、重い皮膚病に罹った者は、祭司に診てもらい、病気であることが認定されますと、その周囲の人たちへの感染を防止するために、自分の着ている衣服を割き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れたものです。汚れたものです。」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。とレビ記13章には書かれています。病の恐ろしさとは、肉体的に感じる痛みや苦しみだけではなく、周囲の人たちから奇異な目で見られるということです。とりわけ、宗教的な情操を基盤とする社会構造となっていた2000年前のユダヤでは、汚れ=重い病=神の呪いと考える思考回路の人たちが多かったことから、誰もが生き恥をさらしたくないと思ったはずです。社会から自分が追放されて、その周縁部で生きるということを恐れたのです。人前に出れば、煙たがられ、疎まれる、石を投げつけられるかもしれないと重い病に悩む人は更に心暗くした。それが当時の時代でした。ところが、今日の聖句に出てくる重い皮膚病を患っている人は勇気と信頼をもってイエス様に向かって出ていきました。イエス様だけは、私を見捨てることなく、助けてくれるに違いないと望みをかけたのです。8:2b「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。その勇気と神様への信頼をほめるように、イエス様はその人の重い皮膚病を癒されたのでした。そして、祭司のもとに行って、治ったことを確認してもらいお墨付きをもらうように言われました。イエス様は、その人を憐れみ、回復を与え、再び地域社会に戻るための道筋を整えて下さったのです。病という誰もが避けて通りたい苦痛、悩みの中に、神様との出会いが与えられること、そして一人の人間と神様との確かな信頼関係がおこされることをイエスさまは教えておられます。そのことの結集はイエス様の十字架での死と復活の出来事に他なりません。人間は一難去ってまた一難と人生を前進するものですが、その先にある死に積極的な意義を見いだせないことから、人生を悲嘆するしかない状態に誰もが置かれおります。死は罪の結果、神が定めた罪に生きる悪人が受けるべき罰、永遠の滅び以外のなにものでもありませんが、その死を御子は十字架で受けられ、そしてご復活されたことで完全に滅ぼされたのです。誰のためであるのか、御子自身のためのか、そうです。御子がすべての兄弟姉妹の長子となるためでもありますが、その方の命によって、信じる者が死から解放され、新しく生きるようになり、永遠に神をほめたたえるようになるためだったのです。その未来への希望、約束を与えるために、神は現実の社会の中で働き、そして霊的な新しい思い、神を信じるという素朴、且つ単純な思いを備えてくださるのです。悩める中に、悲しみ痛む中に、主は愛と忍耐、真実をもって飛び込んできて下さるお方です。今、皆さん独りで孤独を経験されていませんか。その孤独は、孤独の中に自分が埋もれてしまうための孤独ではなく、孤独の中に一人朽ち果てられてた十字架のイエス様を知るための孤独なのです。
 「8:19 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。8:20 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。ローマの信徒への手紙」
 イエス様と共に過ごす孤独の中で、愛と優しさは培養されます。それは神による慰めと癒しです。それらを受けて、人は作り変えられ、自分を大事にし、他者をも大事にする思いを身に着けることができるようになるはずです。目に見える利権社会、人間のエゴによって分断された社会、世界が再び、癒され、清められ、回復されてゆくために、まずは私たち一人びとりが癒され、清められ、回復されてゆかなければ、未来の子供たちへよいものを遺すことはできません。そのためにも、神の国と神の義を求め、主イエス様を通して、神様と相まみえることを大事にしていただきたいと思いますそれは神様が私たちに心から望んでおられることだからです。在主 牧師 山本龍一郎

2020/7/5 Sun 主日礼拝

聖 書:テサロニケの信徒への手紙一5章12-22節
宣教題:よいものに目を向ける

 今朝も私たちは主日礼拝をもって新たな歩みを始めることができます幸いを感謝いたします。北九州は澄み切った青空の天候となりましたが、昨日の熊本での集中豪雨では甚大な被害が出ております。一刻も早く、救援を必要としている方々が元の生活を取り戻すことができるように願います。異常気象という言葉がもはや、当たり前のように使われるようになった今日、いつどこで大災害となる豪雨を受けるか誰も予測することができない状況下で、私たちは毎年この時期に不安な気持ちで過ごすようになりました。今年は新型コロナウイルスの感染拡大による困難な状況下にすべての人が置かれておりますので、更なる困難が降りかかってくることを避けたいと誰もが祈る思いで過ごしていると思います。人生における労苦に積極的な意味を見いだせず、今も生きることについて希望や喜びを失いつつある人たちがいる訳でありまして、私たち信仰をもつ者であっても例外ではありません。
 今春、私にとって良き指導者であり、先輩牧師でもありました田中仁一郎先生が病が原因で召天されたのですが、このような状況下ですから、ご遺族だけでご葬儀をされて、私は後からその知らせを受けました。今、礼拝もこのようにシンプルに行うかたちですが、葬儀も結婚式も同様に短く、簡素、且つ人が集まらないようにと心掛けることが求められるのでありまして、そのことは楽という表現で納得したいと思いましても、やはり寂しく感じるものです。人生における空しさ、寂しさに打ちひしがれる中で人は現実的な世界を超える、永遠的なもの、目には見えずとも心で感じるもの、何時までも残る気高く、真実なものを自然と求めるものです。今朝の聖書箇所はパウロによって書かれたとされるテサロニケの信徒への手紙でありますが、2000年前に地中海沿岸、ギリシャ・ローマ方面にイエス・キリストを宣べ伝えたパウロもまた等しく、呻き求める中でキリストに召された一人でもあります。真実なる神の愛と豊かな恵に触れることによって、パウロは常に励まされ、強められ、あらゆる困難の中に置かれても、彼は諦めるどころか、ピンチをチャンスへと変えられてゆく神を更に称えながら良き働きをなすことが許されたのであります。ギリシャ・マケドニアに位置するテサロニケは海路、陸路に通じた商業都市であり、繁栄した港町でした。宗教的にはギリシャ・ローマの神々や偶像的土着信仰が入り混じるような場所であり、当時はローマ皇帝を偉大な支配者、神のような存在として崇めることが求められる時代でもありました。そこにユダヤ人が建てた会堂があったのですが、パウロはテサロニケで3週間、キリストを宣べ伝えて教会が据えられたのです。ユダヤ教の会堂がキリスト教となってしまった訳ですから、反発するユダヤ人からは、ローマ皇帝に反逆する者の汚名を着せられたように、多くの者から激しく迫害を受けたのがパウロでした。誰かから迫害を受けるということはしんどいものです。私たちは平和的に穏やかに暮らすために、迫害を受けないよう、誰から怒りを買わないように努めるのは理に適うことであり、宗教的対立が地域や国と国との争い、分断を引き起こす原因となるのではとなるべく穏便に過ごしたい、激しくではなく静かに伝道する方がよいだろうと考えますが、パウロは激しい性格であり、多くの人とぶつかり、対立するような中で前進して行ったようです。
5:14には「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」と書かれています。この手紙は、イエス・キリストによる救い、永遠の命への道に至る終末的信仰への勧めが前半に書かれているのですが、教会内には怠惰になっている者や、気落ちしている者たち、弱くなっている者たちがいたようです。迫害されることへの不安は宗教活動を消極的にする遠因となります。当時はキリスト教は、今の日本と同様、マイノリティでした。キリストを信じると宣言すれば、社会的不利益を被ることを覚悟しなければならない訳でありまして、何か事が起きれば迫害されて殺されてしまうのです。何故、そのように一気呵成にキリスト信仰に帰依する人たちが増えたのでしょうか。その時代背景には、ローマ時代特有のものがありました。日帝は常に武力と富の力で、周辺諸国を揺さぶり懐柔しながら攻略し国土を拡大していきました。皇帝を神として称えよという命は、国家権力への迎合・服従という意味合いが大部分です。ローマの貴族層の中には、現実から逃避するよう快楽主義に救いを求めたものもいましたし、倫理・道徳は退廃し、性的な乱れが家庭内を崩壊させてしまうような事態も頻繁に起こるようになりました。そのような偽りの暗い世界によって、澄み切った青空が覆われてゆくような時代を誰が喜ぶでしょうか。暗い時代の到来が、純粋で、気高い愛と真実を求める人たちの魂を呼び起こすための役割となったのです。家庭が崩壊して喜ぶ人はいないと思いますが、崩壊した残骸の中に、十字架のキリストはいたのです。支配欲、自己中心的な思いとは、自我であり、その縄目から誰一人逃れることはできません。それは人間の本能のようなものであり、種族保存のためにも、神様がそのように人間を造られたものでもありますが、普段はあまり表面に出さないよう人間は自分の意識から隠すものですが、それを露骨に出してしまうことから、問題が起こるのです。
「いつも善を行うよう努めなさい。5:16 いつも喜んでいなさい。5:17 絶えず祈りなさい。5:18 どんなことにも感謝しなさい。」
 この勧めを常に守れる人は誰もいません。善をなすようにしながら、実は自分の利益になることを考えるということは人間のずる賢さであり、そこから偽りが生じれば罪であり、悪です。そのような自分を喜び、自分のために祈り、感謝するのであれば、いずれ自分の周囲の者からも、神様からも怒りを買うことが目に見えます。ばれなければいいという考えは、光である神様に背を向けることであり、その時、その人は陰に向かって生きるようになっているということです。そのような大人も少なくはないので、子供たちもそのような影響を受けてしまうことがある。貧しき者、罪の中に放置され、呻く魂をもって叫ぶ者を神様は顧みてくださる故に、福音は真実の光、力、命となってローマ時代の人々の魂の中に植え付けられたのです。
 今、教会の礼拝に出て来られるお方が少ないことは、致し方ないことですが、そのような中であっても一人のひとり、信仰者としての姿勢を確認できることが献金です。献金は大部分が牧師家族を支えるために使われますが、実は私も信仰者の一人として神様に献金を献げることで、自分の信仰のバロメーターとして確認することができており、捧げるという行為をもって、自分がどれほどイエスさまを信頼しているのかがわかりますし、人ではなく、神に対してよいことをしているということが大きな喜びと感謝につながりますので、自分の所有するものの中から、多少何かを犠牲にして捧げるということは大事なことだとわかるようになりました。このようなことこそが、悪いものから遠ざかるということではないでしょうか。見えない神様に供物を捧げることは、信じない人にとっては価値がありませんが、信じる者にとっては大きな励ましと喜びになるのです。今、経営困難となって窮地に立たされている飲食店の経営者がクラウドファンディングで運営資金を援助してもらう仕組みがありますが、このお店は、いつまでも存続してほしいと願う人たちが支えるというもちつもたれつという関係が、潤いのある地域社会、街を創り出すのだなと思いますと、先行投資として、そのように支援することは素晴らしいと思います。教会もより多くの人たちから愛され、支持され、物心両面で支援していただいて、より一層、良い業に励むことを求めてゆくべきだと思います。教会は、世界の全ての人々のために建てられたものです。貧しい者も、富める者も、民族、人種の違いを越えて、神様が招き寄せて下さった人たちの群れ、共同体、英語ではコングリケーションが教会です。そのような教会となるために、教会は単純でシンプルなものでなくてはならないと思います。キリストにあって、努力することが神の喜びであり、私たちの力となることが証明されるためにも、単純にいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝するよう努める、辛い中でも与えられている恵みを数えるということです。
 今週も新しい一週間が始まりました。イエス様は既に十字架によって私たちが接する死を滅ぼされています。そして、復活しガリラヤに行かれ、天に昇り、神の御座におられますが、今は聖霊として、私たちの心の内に住んでおられます。その目的は、救われた者が、朽ちることのない新しい体を身にまとうようになって、永遠に神のみ名を褒めたたえながら神と共に生きるようになるためです。その希望と平和の道につながっている一週間は、今始まりました。よいものに目を向けましょう。聖霊の励ましをいただきながら、私たちは人に対してではなく、神に対して生き、神に対して感謝をささげ、そして神が造られた人々へ良いことを為しながら、この世の悪に勝利することができますようお祈りいたします。在主 牧師 山本龍一郎

2020/6/28 Sun 主日礼拝

聖 書:申命記8章1-3節
宣教題:神が私たちを導かれる

 6月第四週の主の日を迎えます。九州地方には大雨洪水警報が出ていましたが、ここ数年は毎年この時期に大雨が降り、甚大な被害を被っている地域もありますので気が気ではありません。そして、今年はコロナの大流行によって、世界中で多くの人たちが大打撃を受けています。いつになったら、穏やかで平和的な日常が訪れるのかと、叫びたくなるような思いを誰もが心に抱きながら過ごしていことと思います。私はこの町に移り住み、3年が経過しましたが、小倉の町は思っていた以上に住み易く、良いところです。過去に東京での生活をしていたこともありますが、今は大変です。多くの人が満員電車に揺られて通勤、通学しますので、コロナウイルスがうつるのではと不安になります。私も一時、数年間通勤電車に乗って会社に勤めていたことがありますが、何時になったら穏やかで平和的な日常が訪れるのか、満員電車が解消されるのかと20代の頃に思っていましたが、現実は30年前も、今も大差はないということがわかりました。私たちが生きる現実に喜びや楽しみ、感動することもたくさんありますが、試練や困難もまたつきものであります。良い時もあれば、苦しい時もあるということです。
 今朝、皆様と分かち合います聖書個所は申命記です。中国語聖書の呼び方を踏襲しています。その意味は「かさねての命令」といわれています。何度も戒めるということです。この書は、イスラエルのリーダー、神の代務者のような特別な存在として、神より召し出されたモーセが、エジプトからカナンに向かう荒れ野での旅路を終えて、民がヨルダン川を渡り、約束の地に入って行くにあたって、もう一度念を押すように、神より賜った戒め、律法を重ねて民に語った書ということになります。聖書は元々、この律法という部分が中心であり、読む側の人間にとりましては、神は窮屈な制限を敷かれるという印象を持つこともありますが、決してその戒めは人間を束縛するようなものではありません。これからカナンという新世界に移り住む我が子の行く末を案じる神が、慈しみと真をもって語られた手紙のようなものといえます。
 自分の我が子に苦労をさせたいと願う親はいないと思います。立派でなくとも心優しく、周囲に迷惑をかけない人になってほしいと親は願いますが、そううまくはいかないケースもあります。愛に飢え渇き、傷ついた子は、親への信頼を喪失していますから、親の愛を確かめよう、大人の愛情を試すという行動をすることがあります。これは無意識ですから、善悪を判断するしないの問題ではありません。様々な事情で傷を受けた子供たちは、再び自分が傷つくことがないか本当の愛、自分を受け入れてくれる人かと遠くから見ているのです。人間は、どこから生まれて、どこに向かって生きているのかを求めることは人間の根源的な欲求でありますが、そのことについて人間は自分自身で知ることはできない状態に誰もが置かれています。鉄の炉、過酷な重労働を強いられたイスラエルの民の嘆き、叫びに神は応えて、彼らをそこから救出し、荒れ野に導き出すのですが、民の中には早々に愚痴をこぼし、自分たちを飢え死にするためにここに導いたのかと文句を言いだす者たちもいました。エジプトでの生活の方がましだったと神様を罵しるような発言をしたのです。民数記16章では、モーセらに反逆したコラ、ダタン、アビラムという一族の者たちは割れた大地に家もろとも飲み込まれてしまったと書かれています。不安な気持ちから生じる自暴自棄がわが身を持ち崩す結果となる。慌てふためく日々の中で、あっけない人生の終焉が訪れる寂しさに、人生の希望や喜びを見出すことはできません。
自分の人生が思うようにならず、愚痴や不平不満を口にするような現状に嘆くようになる、そのようなことは神から見捨てられたということなのでしょうか。
 東日本大震災で傷んだ多くの人たちの苦悩、悲しみ、新型コロナウイルスで苦しむ人たち、私たちは神の禍を被っているのか。人は自分が願っていないことが起これば、神の罰として災いが自分に降りかかったというような不安に駆られることが誰にでもありますが、そのことは、一種自分という存在がどこからどこに向かって生きようとしているのかの叫びではないか。人間が自己の存在意義を求めることは根源的な欲求であり、実は災いと思しき出来事を通して、神がなされる現実に出会うチャンスとなるなのです。聖書の神様は、私たち人間を造られた創造主であり、ご自身に似せて私たちを造られたと書かれています。だからこそ、神様は遠く離れた場所におあれるような方ではなく、私たちの心の不安や不満、恐れや弱さの全てを身近でよく理解してくださる方で、一緒に悩み、考えてくださる方なのです。そのように慈愛と憐みの神であることを、私たちが確信し、永遠の希望と信仰と愛に生きるようになるために、神は御子イエス・キリストをお遣わしになりました。イエス様は、神様のご計画に従い、苦難と災いを被る僕となって苦しみ、迫害され、全ての人々から見捨てられ、十字架で死に滅びたのですが、その死は悪に妥協し、本来は滅ぶべき人間の罪を贖い赦すための死だったと聖書は語ります。神は、へりくだり、同じ人の姿としてこの地上に現れ、私たちと共に生き、私たちのために死なれ、そして復活したのです。そのような神様の愛と真が既に現れたのですから、種々の苦難に私たちが直面しても、神への信頼を失ってはいけませんし、それ禍だと暗くなる必要もありません。14世紀頃にヨーロッパで流行した黒死病(ペスト)は当時の世界の人口4億5千万人の四分一、1億人が亡くなったと言われています。その病原体は今も完全に消えてはいません。14世紀~15世紀に猛威を振るい、世界中の人たちを震撼させました。当時のキリスト信者の中には、神の罰が下ったと半ば諦めてしまった人たちもいました。苦しみは人間の罪に対する神の罰だから、甘んじてでも受けて耐えるしかないと考えたのです。そうなりますと、病気の治療も、健康の増進も、未来への希望も見失ってゆきます。当時の偉大な神学者、スイスのカルバン、ドイツのルッターなどは、そのように諦めることをしませんでした。この地上の生物も全ては、神の摂理の上に成り立っている故に、ペストの災禍に苦しみ悩む中にも意味がある、神の目的があると考え、積極的に信徒たちを牧会しました。今、再び 人と人とが積極的に交わり、集まることが出来ない状況となってしまいまいましたが、神様は私たちの悩みや叫びに耳をそばだてて下さり、降って来られるお方であるように、やはり人が集まる中で、自身が働いておられること、共におられることを証される神様ですから、人と人との出会いには意義があるといえます。
 人生の先にある虚無、死は、十字架のイエス様によって滅ぼされました。十字架の死と復活の出来事こそが、大いなる神様の救いの御業であり、イエス様はそのご計画のために、初めに荒れ野で40日間、サタンからの誘惑を受けられました。断食をして空腹を覚えた際、サタンより神の子であれば、この石をパンになるように命じたらどうだと囁かれた時に「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と明言しています。そして、後に私は命のパンであるとも人々の前で証ししています。そうなんです。かつて、荒れ野において神よりイスラエルの民に与えられたマナこそが、命のパンであり、イエス・キリストを指示していたと読むことができるのです。
 新たな場所に一歩、前進してゆく際、我が子の行く末を案じる神は生きるための知恵、格言、確かな言葉としてイエス・キリストを覚えよと何度も言われます。この原理原則の上にどうぞ、立って下さい。そうしますと必ず、古い自分の思いは過ぎ去り、全てが新しくされてゆくからです。それでも、私たち人間は常に右往左往し、揺さぶられ、時には誘惑に遭いながら、自分を見失いかけるかもしれませんが、神が与えられた真実の愛と真は、永遠に変わることがないので、常に主に立ち返り、主に結ばれて、自分に与えられた人生を豊かに、健やかに歩んで下さい。神様はそのように望まれています。在主  牧師 山本龍一郎

2020/6/21 Sun 主日礼拝

聖 書:エフェソの信徒への手紙4章1-13節
宣教題:多様な賜物からなる主のみ体

 六月の第三週主日を迎えることができましたことを感謝いたします。本日も皆さんとビデオ礼拝をお献げいたしますが、本日よりこの場所へ希望者は参加することができるようになりました。未だ、新型コロナウイルス感染は世界的に見ますと、増加しており、今後第二波となって更に危機的な状況となるのではと誰もが気を許せないさ中ではありますが、小倉教会では、感染防止策を徹底し、人と人との接触を可能限り避けるかたちで、徐々に平常活動に向けて第二ステップを踏み出したといえます。ですから、教会員は全員集まってくださいということではなく、不安な方、諸事情で教会に足を運ぶことが困難な方はこれまで通りビデオ礼拝をご自宅などで捧げて、祈りを合わせていただければと思います。教会はキリストを頭とする主のみ体と例えられていますが、そのみ体とはどのようなものなのでしょうか。全国津々浦々、教会も、そこに集まる人々の顔ぶれは様々です。工業地帯に隣接する教会もあれば、高額所得者が居住する住宅街に隣接する教会もありますし、それぞれ雰囲気は違います。色々な教会に足を運んでみますと、自分に合っている教会はこのような場所なのかなと思わされたりします。でも、教会は人間の集まりにすぎず、弱さを抱えている人々の集合体であって、決してキリストを現すという使命に全員が応えている理想の群れではないということに、所属した人は後に知るようになります。今朝、皆様と分かち合う聖書はエフェソの信徒への手紙です。この4章は、キリスト者(クリスチャン)として新しくされた者として歩む道、神から呼び出された者として生きる道がどのようなことであるのかをパウロは語っております。一人の人間の心の内に、キリストからくる賜物によって新しくされながら成熟した人間とされ、そのような一人ひとりのキリスト者が互いに結び合わされ、最後は、その誰もがキリストに対する信仰と知識において一つとされて神の豊かさに至るまで成長すると希望のある言葉がつづられています。私は、素直にそうなんだと22年前にバプテスマを受けた際に思いましたが、今は「夢のような話」ではあるが、そうであってほしいと願うようになりました。教会は、多様な賜物を持つ人たちの集まりであるが故に、時には競い合ったり、誇り合ったりすることも起こります。或いは、そのような運動会に参加できないほどに弱り果てて、自分をダメだと落伍者のように思ってしまう、思わせてしまうのも教会の働きによることです。教会も国際化して、多様な言語や異国文化の方々にも対応することができるようにと小倉教会も新たな視点に立つことが求められていますが、それこそ更に多様な賜物を持たれる方々との礼拝、交わりとなりますので容易なことではありません。そのようなことに対応する為に、教会が必要となるものそれは、高度で複雑な自治機能を持つようになることです。しかし、一見単純明快でなくてはならないとも言えます。高度で複雑な自治機能は人間の精神を疲れさせるからです。これまで二カ月間、オンラインで礼拝と祈祷会を行ってきました。私にとってはとてもよかったです。でも聴く側の方にとってはと考えてみますと全てよかったとは言えないはずです。オンラインによる一方通行であり、相互作用が生じているのかがわからないという不安を私は心に抱いておりますが、今は、メールや電話でのやり取りで確認するしかないということです。今、こうしてこの場所に来られている方々のお顔を目にしますと安心します。お元気そうで、元気になられているようにも思えてしまうのは何故だろう。インターネットでの繋がりは、情報や知識の伝播、共有には役立ちますが、意思疎通については限界があります。やはり教会は聖霊の豊かな働きによりて導き出された者たちが清められ、聖別された新しい言葉を証ししながら、更に喜びや神様への賛美の声が増幅されてゆくことを目にし、耳にし、魂に確信を刻み込ませるための役割を担っている場所であると信じております。パウロはエフェソの信徒たちにこのように説明しています。

「4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」

 主に結ばれてパウロが受けた祝福、それは牢獄に送り込まれて幽閉される中で、この手紙を書く機会が与えられたということです。神の招かれる場所は、決して平坦な場所だけではなく、私たちが望まないような苦難と試練を伴うような場所かもしれないということです。エフェソの教会の人たちの周囲には偶像的な神々と異端的な信仰に心惑わされている人たちが大勢いました。そのような中にあっても、心揺さぶられることなく、十字架のキリストの死と復活を信じながら、キリストを中心とした教会形成を為し、教会の成熟と成長を目指すようにとパウロは励ましながら勧めたのです。エフェソの人々への手紙は、教会に集う一人ひとりのキリスト者が真のキリスト信仰に立ちながら教会を霊的な神殿として立ち上げてゆくための実践的な教えなのです。今、コロナ問題の影響によって、以前の私たちの生活スタイルは一変しました。一人ひとりの社会活動は大きく揺さぶられて、変化し続けています。仕事にあぶれてしまう人も増え続けておりますし、今後も経済の見通しは暗いものとなりました。まさに第二波が来るといいうことはこのような状況下で起きるのだろうと思わされます。恐らく問題や課題は更に増えると思われます。でも、そのような苦難・試練の中においてこそ、神は私たちたちと共におられて、一人ひとりを神への奉仕者として召し出して下さるに違いないと思います。感謝なことです。闇の中に輝く光とはキリストであり、キリストが私たちを暗闇の中より救い出してくださるために来てくださったこと、私の罪のための贖いとなるために十字架で死なれ、復活されたことによって全てが赦されたことを証しするための機会が神によりて準備されているからです。キリストに結ばれて生きる者は死んでも生きます。転んでもただでは起きない人、キリストにあって転べば、真に生きる。自分や人のためではなく神のために転ぶとは真に生きるということにつながるのです。たとえその人が死んだように見えても、寧ろ神がそのような者を用いられて福音を告げ知らせるためにお遣わしになるのです。このセオリーは世の人々の考えとは結びつくことはありません。何故ならそれは愚かなことであり、敗北であり、現実には生産的利益に結びつかないからです。それがキリストの十字架の死であります。今、私たちは先が見えない時代に突入しました。まさに暗闇・暗黒の世界です。政治は腐敗し、経済は悪化し、人々にも余裕がなくなります。愛するよりも愛に飢え渇く人が増え、希望や平和とは何であるのかぼやけてきています。オリンピックもどうなるかわかりません。先が見えないことから生じる不安を解消させるためのサービスが注目されることでしょう。でも、キリストに結ばれて生きる者は、暗闇の先に目を向けています。キリストは既に闇に打ち勝ったことを私たちは知っています。虚しさの極み、神による永遠の罰である死を滅ぼされたキリストこそが完全な勝利者であり、唯一の救いの道、永遠なる王の王であることを私たちは知らされ、信じているから大丈夫です。茨の道を歩かれた主イエス様は、人の人生の辛苦すべてを分かってくださるお方です。孤独の中、寂しさの中、疲れと弱さに嘆息する中に主は共にいて下さること、キリストの謙遜を身に着けるとは、そのような自分を知らされ、認めるということから何かを始めるということではないでしょうか。在主 牧師 山本龍一郎

2020/6/14 Sun 主日礼拝

聖 書:神の賜物
宣教題:エフェソの信徒への手紙2章1-8節

 6月の第二週主日礼拝日を迎えます。季節は、梅雨となり、教会の入り口にはアジサイが咲き出しました。アジサイは他の草花と比べますと大量の水が必要とされる植物であり、梅雨時に花を咲かすとのことです。栄養分を含む豊かな水が植物を生かすように、私たち人間も同様、よい水と栄養が必要であり、更に神の慈愛と恵みで心と魂を満たしていただく必要があります。コロナ禍による、自粛生活は二ヵ月以上に及んでおります。積極的に外出して、人と接する機会が極端に減少したことから、私自身は気持ちが内向的になっています。巣ごもり生活にもマンネリ化を感じ、日々同じようなことを繰り返すパターンに慣れて、変化に乏しい生活をこれからどのように変えてゆけばいいのかと思い巡らす日々が続きます。その答えを明確に見出すことができる際、私たちは次の時代に立つことができるのではないかと思っております。
 今朝、皆様と分かち合います聖書箇所はエフェソの信徒への手紙からです。エフェソはエルサレムから1000キロほどの離れた地中海の小アジアに位置しますが、最初、そこを訪問したパウロたちによって福音が布教されたと思われます。もちろん、キリストのキの字も知らない人たちに福音は運ばれていったわけですが、その後に、パウロから彼らに宛てて書かれた手紙がこの書になるのです。そこには大いなる神による救いの計画が与えられたこと、神の愛の壮大さが示されたことが順序だてて認められています。後に、この書簡2章8節は神学者カルバンによって予定説の根拠とされています。予定説とは、神が恵みと愛に基づいて、救いを与えることを既に計画されているという考え方です。パウロの時代に、そのような神の計画があり、それが実現した、全ては神の恩寵、与えられた賜物としての信仰によって、あなた方は救われたと宣言することに対して反対する学者は勿論おりました。神の恩寵よりも、人間が自助努力することによって穢れた肉体を凌駕する清い魂だけが死後に天に昇華して神のような存在となると考えた人たちがいたのです。そのような人たちは人間の肉体を牢獄と考えました。人間は欲望に基づいて生きる本能を有しているので、どんなにそれに抗っても過ちを起こしたり、貪欲な思いに支配されて生きる故に肉体は穢れていると考えました。ただ魂だけが自分の努力によって清められ、高められてゆくというような考え方があったのですが、現代を生きる私たちも、過ちや失敗を繰り返す度に、自己反省しては、自分で自分を作り変えようと努力することもどこか似たような部分ではないでしょうか。心は純粋でありたいが、現実はそうではないということの狭間で人間は誰もが葛藤するものです。
 2章1-3節をご覧ください。「2:1 さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2:2 この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。2:3 わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」 2節には「過ちと罪」という言葉が出てきます。過ちとは外側に現れた罪、現実の事柄です。ギリシャ語でパラプトーマといいます。そして罪とはギリシャ語でハマルテア、それは心の内側の罪です。それら過ちと罪とはどのようなことなのでしょうか。イエス様は罪を犯したことのないものは、その女に石を投げよといわれたことがあります。道徳的に許されない罪を犯した女性へのバッシング、そしてイエスを試すための罠でした。集まった者たちは、全員、石を手に持つことなく、徐々にその場から離れ去っていったと記されています。誰もが自分の心の中にやましい思いや、自己中心的な思いがあり、誰かを愛するよりも憎み、自分だけが愛されることを願ったり、時には与えるよりも奪ったりしている現実に生きていることがわかっているのです。そのような正に、自分に囚われる思いと言動に悩む際、誰が救い出してくれるのかということが人間にとって重大な問題なのです。考えても答えが出ないので、普段私たちはそのようなことを考えないよう、趣味や仕事や、自分の好きなことに目を向けるのでしょうが、この問題は神を知ること以外に解決されないことです。過ちが起こるには原因があります。その原因となる根本を解決しなければ、再び過ちが起きます。根本とは「罪」ハマルティアです。その言語の真意は「的外れ」ということです。世の中は目に見えること、社会に利益を生み出す、現実的なことを優先します。便利なもの、強いもの、例えば原子力は国益につながるが、戦争に使われたら皆が滅びるから使えないものであり、その原子力による核ミサイルを保有することで平和が保たれるという考え方があります。でも、人間なので誤った判断をすることも在り得る危険なものです。人間に幸福を齎すものが、人間を不幸にすることもあると忘れてはいけません。そのようなものだけを拠り頼みの神のように考えるのであれば、その考えは「的外れ」となります。神ではないものを神のように崇める結果、誰かから怒りを買う羽目になることでしょう。独占、独善、人間の自己中心的な生き方こそが、己の腹を神とするということに至ります。エフェソの信徒たちもかつては、そのような生き方に染まっていたことで、神から怒りを受けるべき者たちであったとパウロは言っています。神ではないものを神として、自分の行いを正当化する姿勢を見た神様は激しく怒り、悲しまれたということです。また心、身体、魂は神の創造の業によるものですが、身体は穢れで、魂は人間の努力で浄化できるという異端的な考え方は、的外れであるということだったのです。古きは過ぎ去り、新しいものが生じたとは、キリストを身にまとうということ以外に何もありません。
 2章4-8節をご覧ください。
「2:4 しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、2:5 罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです―― 2:6 キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。2:7 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」 この世界を造り、月星を含む太陽系を、銀河系を、大宇宙を造られた神のことを、誰が知っておられたのでしょうか。誰も知らなかった、知らされていなかったのですが、神はキリスト・イエスにおいてのその神秘、奥義を私たちに開示してくださいました。神から離れ、悍ましいことをもしてしまう人間の罪から一体誰が救ってくれるのか、完全な赦しと清めはキリスト・イエスの十字架の贖罪によってのみ、神から宣言される恵であろう。神は、私たちの人間の心のうちに生じる怒り、赦せない気持ちをも汲み取って下さり、御子イエスの犠牲となった命によって神との和解へと至る完全な平和を既に与えて下さったのです。
 横田滋さんが召天されました。北朝鮮に愛娘のめぐみさんが拉致されてからの涙の祈り、不当な扱いを受けた激しい怒りを押し殺しながら何十年も苦労をされた横田さんに思いを馳せますと、私は、神様は失われた一人の我が子のことをどれほどに、慈しみ、愛されているだろうかと、神は愛であることを強く思わされました。私たちは知っています。愛と真実、神の義はキリスト・イエスの十字架によって高く示されたこと、罪の結果の死を完全に滅ぼし、新しい復活の命が信じる者には無償で与えられたことを知っている、いや知らされているのです。今週も神様に対して誠実に、平和的に、全ての思いを委ねて生きることができますように。在主 牧師 山本龍一郎

2020/6/7 Sun 主日礼拝

聖 書:主のために生きる
宣教題:ローマの信徒への手紙14章1-8節

 おはようございます。本日も皆様とビデオを通しての礼拝の時を持てますことを感謝いたします。いつまでこのようなスタイルで礼拝をするだろうかと考えますと、先行きの見えない現実に心が引き戻されて、気持ちが落ち込んでしまいます。一般的に、宗教は弱い心の状態に陥る人間が逃げ込むための最後の砦のように譬えられることがありますが、仏教にしろ、キリスト教にしろ、この世の彼岸に黄泉があり、極楽浄土がある、神の国があるという希望を与えるものでありますから、事実、そのような助けを担う役割もあるということを否定することはできません。ただ、心も身体も弱い状態になったことで、その人が神を、仏をと、この世的ではない神秘なもの、霊的なもの、魂のためになるものを求めるのかといえば、そうではありません。人であれば物心がつく年齢になれば、自分は生まれてきてこの先どこに行くのだろうと考えるようになりますし、夜空の星々を見つめ、宇宙の神秘のこと学べば、人間は永遠を思うようになるように、人は、自然と目には見えない神秘的なものに想いを馳せる、求めるようになるものです。コロナ禍の下、北九州市の空はかつてないほどに有害物質がなくなり、きれいになっています。夜空を見つめますと、これまでにないほどに沢山の星々が目に入ってきます。夜空の月星は変わることなく美しく優雅であるのに、私たちが生きる地上は、何故こんなにも争いが絶えず、疫病が流行り、生活が脅かされるのか。人間が悪くなった結果の罰のようにも思えてしまうことが私たちの身近では起こります。コロナ禍によって貧しくされた者たちは、更なる窮地に立たされ、挙句の果てに差別され、見捨てられてゆく現実、米国での人種差別問題は、今も現在進行中です。アングロサクソンが黒人を見下すという構造は、聖書の記事の読み取り方に基づくものですが、未だ100年前の聖書の読み方が根深く浸透している面もあるのでしょう。この問題の根本は解決されていないままです。そのような問題、課題が山積している世界に人間など生まれてこない方が幸せと思ってしまう人が出てきても当然のことです。まして、コロナ感染が収まらず、経済は悪くなり、多くの人が窮地に立たされる現状となっている今日、私たちは、新しい時代に生きるために心も生活も刷新してゆかなければなりません。未来の子どもたちのためにも。
 さて、今日のみ言葉ですが、2000年前のローマの教会での話です。キリスト教がイエス様の愛弟子たちによって布教されてできた初期の教会での出来事についてです。キリスト教会内において、食べ物のこと、そして礼拝のことで教会内が二分されていた様子が分かります。ローマ教会の中には菜食主義の人がいたようですが、そうではなく何でも自由に食べる主義の人もいたようです。食事については何でも食べる人は、そうではない人を批判したりして裁くような思いで過ごしていたのです。また、それ以外に教会の中には、大変熱心な信仰をもつ者がいて、礼拝日を特別に尊ぶびますが、そこまで重んじなくてもいいのではという感覚の人もいたようです。文化・慣習の違いは日本人同士でもありますが、特にローマ教会の場合、異邦人とユダヤ人が一緒に礼拝していたと推察されますので、お互いに気をつかいあっていた状態であったと思われます。ユダヤ教の中でも特に厳格なグループであったエッセネ派は、沐浴する、特別な衣類に着替える、食事は祭司が作ったものしか食べないという人たちもいましたし、他にも宗教的な主義で肉を食べないという人たちもいました。例えば輪廻転生を信じていたピタゴラスの教えを受けた人たちの思いは、人の魂は墓のような肉体に閉じ込められた堕落したものであり、その魂は草木や動物の中に移り住み、輪廻すると信じていました。その存在の鎖からの解放は、絶対的清めと修養することに努めることと考えて、食事にも制限がかったのです。ローマ教会の中にもそのような影響を受けていた者がいたのですが、そのようなことに囚われない信者が、囚われている信者を軽んじたり、批判していたようです。人間が人間を見下すということは、その人間を造られた神の業を軽く見るということです。人間は、目に見えるものや、他者からの賞賛、評価によって踊らされることが多く、その結果、自分の考えは正しいと最終結論を出しますと、他者を裁く、軽く見るということが頻繁に起ります。聖書ではそれを肉といいます。肉は自分を絶対化する狭量な心の状態、自己中心的な人間の本性であり、快楽や誉、自己顕示欲を満たすためにはあらゆる手段をもって求める人間の性であります。その肉の思いの根っこは大変深いもので、完全に抜いたと自分では思っていましても、再び伸びてきます。髪の毛は抜けますと、再び生えてきません。これは寂しいものです。心の内に肉の根は生え続けますが、目に見える髪の毛は二度と生えてこない。実に寂しいことです。肉の思いは誰もが持っているものであり、神様が造られた人間の根源的なもの、本能的な部分でもありますが、それだけに従うのであれば、人間は悪魔のようになるということです。悪魔のような人間を恐れるのが、また悪魔のような人間です。肉と肉がぶつかり合う先に絶望が生じ、滅びが訪れます。先週末に、子が親や家族をボーガンで撃ち殺してしまうなど、考えられないような恐ろしい事件が起こりました。そこに至るまでの経緯は不明ですが、引き金は、怒り、憎しみが生じ、破壊、破滅を思わせる心の状態であったと思います。偽り・混乱、闇の力が猛威を振る際、人間は悪魔となって自ら破滅の道へと踏み出すのです。そのように神より離れてゆこうとする私たち人間に希望を与えて、光の子とするために、神はイエス・キリストを送って下さいました。御子イエスは、人間として現れて下さいました。ローマの信徒への手紙には「肉」という言葉が27カ所あります。その破壊的力、神から離れて自ら神のようになる人間の罪の原因が肉であることを教えています。

ローマの信徒への手紙8章3節には、「律法が肉により弱くなっていたためになしえなかったことを、神はしてくださいました。つまり、神は御子を、罪のために、罪深い肉と同じ姿で世に遣わし、肉において罪を処罰されたのです。」と書かれています。

大変、難しいことが書かれていますが、要は「毒を以て毒を制す」というこです。神がしてはならないという戒めを守ろうとすれば、人間の心の内には、それに逆らう思いが生じ、善よりも悪をなそうとする思いになる、それこそが肉の実態であるとパウロは確信していました。そのような人間の肉を完全に赦し、清めるために神はキリストを同じ肉の姿で遣わし、十字架で処罰されたということです。このことを何度も考えて、信仰によって自分の心の中に留めてゆくのであれば、信じる者の心の内には神が自分の主となり、真の自由と解放に与るという一つの法則に則って生きることができるようになります。肉の思いは高ぶり、高慢、妬み、ひがみ、偽りや呪いから生じる怒りです。そこから遠ざかるために、私たちは十字架のイエスに目を向けることの繰り返しが、私たちを悪より守るために最大の力となるのです。
 エコロジーのためにできること、皆さんも地球環境のためにできることを心掛けておられると思いますが、私はなるべく石油製品を使用しないということから、自分できることとして、レジ袋をお店でなるべく購入しないようにしています。マイバッグだと思うでしょ。違うんです。家に溜まってゆくレジ袋の再利用です。穴あくまで使うんです。それで捨てる。ある日はピンク、ある日は白、黄色という具合です。いいことです。今から100年ほど前に活躍したキリスト教の伝道者であり、社会活動家でもありました賀川 豊彦という人は、今日、便利で人気のある生協のシステムを日本で最初に設立した人です。そして、神戸で日雇い労働者の人権擁護のために国と戦った正義感強い、弱者の味方であった先生です。その先生が、キリスト教の大きな会合に出席するために上京された時のこと、会合で発言をされる際に立ち上がり、おもむろにポケットから古新聞を取り出し、鼻をかんだそうです。当時、全国のキリスト教会から説教してほしいと引っ張りだこであり、生協も創設されていたことで、収入は十分にあったと思われますが、自らの生活は質素・倹約に徹していた様子を伺い知ることができます。何のため、誰のためか。それは神によって造られた貧しき人々のためであることは言うまでもありません。到底、私はその先生の足元にも及びませんが、自分のために生きるのであれば、私には希望も、生きる意味をも見出すことはできなくなりますが、神のために生きるのであれば、希望や、新しい目標に向かって、永遠を仰ぎながら励むことができることは確かです。要するに十字架のキリスト・イエスに向かって生きるということが自分の喜び、励みの原動力となるということです。このような考えは、世間一般の人たちの世界観からは、かけ離れていると思われるかもしれませんが、人間を深く洞察し、より理解し、受容してゆくために最も大事なこと、真理であり、道であり、命である神様が私たちに教え、信じるようにと勧めていることなのです。話は戻りますが、人間は人間社会でつまずきます。自分の存在を否定されたり、食事ひとつにしても、理解されず、仲間外れにされてしまうこともあります。集団社会から自分が排除されることを恐れて、悪い方になびかれてしまい自分を見失うこともあるでしょう。でも、そのような弱い私たち人間のために神様は、イエス様の十字架によって、全てを赦し、浄めて下さる故に、何も恐れる必要はありません。その時、あなたは聖霊の豊かな働きによって、神を畏れ敬う姿勢に造り変えられていることに気づくことでしょう。最後にローマの信徒への手紙14章7-8節をお読みいたします。「7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」 在主 牧師 山本龍一郎

2020/5/31 Sun ペンテコステ礼拝

聖 書:望郷の念に駆られる
宣教題:使徒言行録2章1-13節

 おはようございます。5月の第五週主日を迎えます。小倉教会では本日より礼拝を再開する予定でしたが、市内では再び新型コロナウイルスの感染者が急増したため、再開を断念いたしました。一体いつまで続くのかと誰もが辟易し、精神的にも肉体的にほとほと疲れ果てきましたが、この判断は誰かの命を守るためのことです。このようなビデオでの礼拝は四月初旬から始まり、一ヵ月以上となりましたが、もうひと踏ん張りという声を掛けながら、最後はだめだとなるのか、日の目を見るのか、後者に私は望みをかけています。
 さて、本日はペンテコステ礼拝となります。ペンテコステとはギリシャ語で50という意味です。聖書によれば、2000年以上前にイエスは、ユダヤ地方で神の国運動を展開し、ユダヤ上層部に国家転覆を図ろうした咎で捕らえられ、十字架で処刑されたのですが、その後、復活し弟子たちの前に現れたとされています。それから、イエスは彼らに、新たな日が訪れるので、それまで皆で結束して待ち望むように言われました。彼らが新しい力を受けて、地の果てまで福音という良き知らせを宣べ伝えるようになると聖書には書かれています。その約束は実現します。イエスの復活から50日後、ユダヤでは七週の祭りの時、聖霊という神の霊が一同の上に降り、そこにいた多くの人々が不思議な体験をし、神が自分たちの上に臨まれたことを確信したのです。ユダヤには三つのお祭りがあります。過ぎ越し祭、七週の祭り(五旬祭)、仮庵の祭りです。いずれもイスラエルの先祖が神様によってエジプトでの苦難から救出されたことに基づき、神から与えられた祝福の恩恵、特に初物となる収穫物を得る頃に、神に感謝を捧げるよう定められた伝統的な祭りです。最大の祭りである過ぎ越し祭でイエスは十字架刑で死なれ甦り、その次に大きい祭りである七週の祭りで、ペンテコステという聖霊がイエスの弟子たち一同の上に降るという出来事が起きたということ、偶然ではなく、神の必然としか思えないようなタイミングの良さです。復活のイエス様が、あなたがたは力を受けて、地の果てに至るまで、私の証人となるので、それまでの待つようにと弟子たちに言われ、そのことが起きたのです。どのよう現象が彼らの上に起きたのか、2-4節にこう書かれています。「 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」 大変おどろおどろしい光景を読者は想像します。突風が轟く中で、炎のような舌が別れ別れに、一人ひとりの者たちの上にとどまり、彼らは他の国々の言葉で話し出したのです。どのようなことなのか、その祭りに集まっていた人たちは、それぞれ、イスラエルの周辺の国で、二世、三世として生きるようになったユダヤ人もいて、母国語のヘブライ語や当時のユダヤ人が使用していた言語、アラム語を理解することも、使用することもなかった人たちも含まれていたようです。パルティアとはイラクの辺り、メディアとはイラン周辺、エジプトに住むようになったユダヤ人もいた。ところが、そこに集まった者たちが一斉に言葉の壁を乗り越えて、自分たちが互いに一つの言葉を理解していると確信したのです。郷愁、ノスタルジア、自分の故郷への憧れの念が高まり、里帰りしていた者たちの願う以上の素晴らしいことが神によって起されたのです。
 今、我が家の娘二人は、学校が休校となっているので自宅で学習しています。母国語は勿論日本語ですが、言語の学習として英語も学んでいます。母国語以外の言葉を習得すること、使う機会がないと学んでも直ぐに忘れます。そうでない方もおられるとは思いますが。今時、英語くらい話せないと海外では通用しないといわれて、何十年、なかなか日本にいると難しいと思われます。英語圏の国で過ごすことで語学力は上がることから留学する人もいます。松崎牧師という先生が今、アメリカのノースカロライナ州の教会で牧師をされています。数年前まで神奈川県内の某教会の牧師をされていたのですが、数年でそこを辞められた後に渡米されました。その松崎牧師が留学生としてだったか、牧師になる前にアメリカの教会の礼拝に参加していた時のことを語っておられたことを思い出します。当時、毎週、英語で行われる礼拝に参加し、耳をそばだてていたのですが、ある牧師より、あなたは日本人なんだから、母国語で聴く礼拝に参加したほうが良いと勧められ、日本語教会の礼拝に行かれたそうです。そして、日本語での説教がしみじみと心に伝わってきて深く感動し、癒されたそうです。そのような体験をした牧師であるからこそ、米国で過ごす日本人の礼拝者の寂しさや辛さを理解し、やがて渡米して日本語教会の牧師となったのだと思われます。故郷の言葉、食事、自分が幼い頃に触れた文化・風習、そのようなことは、いつまでも変わってほしくないものです。多くの国では、生産性のない文化や風習を残すための原資や跡取りも少なくなり、経済第一主義が掲げられて、資本主義の波に飲み込まれてしまう時代に私たちは生きていますが、故郷を残すということは人間が人間らしさを失わずに生きることであり、その子孫によいものを残すということです。便利で安いから、利益になるから新しいものがよいという発想がこの世界を壊してゆくことも大いにあるのです。英語教育も、ビジネスのため、事業拡大のためにと考えて身に着けるのであれば、面白くも何ともないですね。人間と人間が互いにコミニケーションを図り、理解し合い、繋がり、喜び合うため、励まし合うために言葉は必要なのです。
 神様は、散らされた民を再び、一つにするために、一つの方法を執られました。失われた民、悲しい歴史によって引き裂かれた民、様々な歴史の痛みを抱えながら生きる人々を癒し、清め、再び一つとするために、御子イエス様をこの世に遣し、教会という共同体、神の家族を興されたのです。それがペンテコステという記念する日です。使徒言行録の後半にパウロという伝道者が出てきます。彼はキリストを信じる者たちを容赦なく捕えては、牢に送り込み、死んでも構わないと考えていた熱心なユダヤ教徒であり、反キリスト主義であったのですが、イエスに出会い、回心し、偉大なキリスト伝道者へと造り変えられ、神の僕として活躍するのですが、彼はユダヤ人でありながらも生まれは、タルソス(今のトルコ)でした。謂わばユダヤ系という立場でした。彼も散らされた民の一人だったと言えます。しかし、高等教育を受ける機会に恵まれたパウロは、母国語もギリシャ語も堪能であったようで、ユダヤ教の教師の資格も持っていたことから、ユダヤ教の会堂を行き巡ってはキリストを伝えるということに励むようになりました。そのパウロに、初めてイエス様は語りかける際、その言語はヘブライ語でした。使徒言行録26:14『私たちが皆地に倒れたとき、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。』 何故、ヘブライ語なのか、イエス様はアブラハム・イサク、ヤコブの神、イエスラエルの神であるということ、天地万物を造り、全ての民を祝福し、永遠の救いに至る道を与えるイエス・キリストの父なる神であることをパウロに確信させるために、ヘブライ人のパウロにヘブライ語で語りかけたのです。日本語を使う私たちには、きっと神様は日本語で語りかけて下さるでしょう。ハングルを母国語とする人にはハングルで、中国語の人には中国語でといいう具合に、神様は全ての国々の人々を愛し、文化・風習をも重んじておられる方です。そして、この分断される地上で、孤独を感じながら生きる一人一人をキリストによって集められ、最後は言葉の壁を乗り越えるために、聖霊の豊かな働きによって人間は、一つとされる、神の国に生きる一人として下さると聖書は約束しています。今、コロナ禍によって、世界の国々の経済は悪化しています。貧困は犯罪率が高まる原因となりますし、まさにこれから艱難を私たちは迎えることとなると思われます。今からが始まりと考えてもよいと思います。でも、これから始まる試練の先に、主によりて再び集められて、一つとされる神による真の回復、真実の赦しと救いが訪れるといいう希望を聖書から知り、信じるのであれば、私たちは失望することも絶望することもありません。互いに助け合いながら、この困難を潜り抜けてゆくことができることでしょう。2000年以上前に、ペンテコステ、約束の聖霊降臨はエルサレムで起こりました。今も、規模は小さくとも時々、それは起こることです。神は罪に陥り、深い眠りの中に留まる民を憐れみ、覚醒させるため、神の愛によって、完全な赦しによって、新しく生きるようになるために、聖霊として被造物である人間の内側に激しく降って来られることもなさいます。だから、神様に期待して、希望をもって生きましょう。その目的は、私たちが悪より離れて、真実の神様に向かって生きるようになり、永遠に神を賛美するようになるためです。在主
牧師 山本龍一郎

2020/5/24 Sun 主日礼拝  

聖 書:神は私を呼ばれる
宣教題:ヨハネによる福音書21章15-19節

 五月の第四週主日を迎えることができました。これまで一ヵ月以上、小倉教会では礼拝、祈祷会を中止しておりましたが、来週5月31日より礼拝を再開いたします。新型コロナウイルスの感染は未だ終息へと至ってはおりませんが、教会では感染防止策を徹底しながら、通常の活動へと戻してゆくことといたします。このことは大変喜ばしいことでありながらも、再び不安と緊張を強いられる状況下に私たちが置かれるということでもありますが、三密を避けながら、新たな生活スタイルを模索するしかないという判断に基づいてのことです。
 今、このようにネットを通して、皆様と繋がってはいますが、神は霊であり、そのお方が豊かに働いて下さる下に信仰告白共同体としての教会、霊的神殿とされた一人ひとりが集まるということが神様の喜ばれることであると私は思います。今は、自宅待機、不要不急の外出を控えるという空気で、誰もが精神的な飢え渇きを感じながら耐えていますが、新たな厳しい時代に突入した事態からは誰一人逃れることができませんので、私たちは許される限り、最善を為してゆきながら心身共に健全とされて、一緒に未来に向かって進んでいきたいと思います。そのためには、まずは私たち人間を造られた方との関係がどのようになっているのかを深く知ることから始まります。神として崇められるイエス・キリストは同時に、完全な人でもありました。そのイエスが初めに呼び集められた12人の弟子たちを含む13人は、ガリラヤ方面からエルサレム方面に向かう形で神の国運動を展開し、福音という良き知らせを宣べ伝えたのでありますが、その集団は盤石な一枚岩となっていたのかを考えてみますと、決してそうではなかったようです。彼らは互いに誰がイエスの次に偉いのかと夫々が自分の未来の出世のことばかりに思いが囚われていたようです。イエスは、十字架で死なれ、墓より甦り、40日に亘って弟子たちの前に現れたと証言されています。今日のみ言葉ヨハネ福音書21章の記事は、十字架にイエス様がつけられてしまう際、浮き足立って退散した弟子たちが自信喪失した後に、み使いを通して主は復活したと聞かされ、郷里でもあるガリラヤに戻り、弟子の一人であったペトロにイエス様が語りかけたことについてです。イエスから離れてしまった彼らは、自分たちが裏切るようにして逃げ去ったことを引け目に思いながらも、生きるために再び彼らの生業でもあった漁業に精を出していたと思われます。仕方なく、再び元の仕事に戻ったのです。そこにイエスは現れ、彼らを祝福するように、魚の居場所を教えられて、彼らは大量の魚を捕ることができたと記されています。そして、共に食事をしなががらイエスは弟子の一人ペトロに語られたのです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」ヨハネ21:7より ペトロは、イエス様から三度も尋ねられたことについて、再び不甲斐ない自分を思い出し、惨めな気持ちになったと思われます。何故なら、イエスに従い、あなたのためになら自分の命も捨てますと宣言したペトロは、そのすぐ後に、大祭司の屋敷内で「あなたもイエスの仲間でしょう」と門番の女中から問われて、三度知らないと否定してしまったからです。その不甲斐ない自分の実相を思い出させるようかの如く、イエス様は三度、尋ねたからです。このシーンは、まさに人間同志における愛の告白や、プロポーズのシーンのようにも思えてしまいます。コロナ禍による、失業や、家庭内自粛での夫婦間に亀裂が生じ、DVや離婚が増えつつあるようです。互いに赦し合いましょうなどとクリスチャンは口にしますが、心の中を見つめてみますと誰でも分かります。赦しあうことができていない現実が横たわったまま、共存するしかないような世界の中に多くの人は立たされている現実があります。イエスに集められた弟子たちも同様、イエス不在となった未来はどのようになるのか不安と恐れの中に彼らは置かれ、誰が長生きするのか、自分の将来はどうなってしまうのかと思い煩ったのです。未来が見えない、お先真っ暗という失望はやがて絶望に変わってゆきます。今、コロナウイルス感染による脅威は世界を震撼させています。私たちにとって最も大事である命を奪い取ってしまう原因不明の病によって命が奪われることに誰もが恐れます。そして、急速な経済の悪化が私たちの生活を追い込みます。すぐにワクチン、特効薬が開発されることを誰もが願う今日となりました。様々な試練と思えるような困難、苦難が押し寄せてくることによって、人は不安と恐怖に駆られます。他者に対して優しく手を差し伸べる余裕すらなくなり、愛は冷え、多くの人が自分の殻の中に身籠るような生活を強いられ、徐々にストレスを浴び、淋しさを感じるような生活に強いられています。それは生きるためだから仕方がないと、半ば諦めるしかないことかもしれませんが、そのような時代においても神は光をもって闇を照らしていると聖書は言います。イエス様は、既にペトロを赦し、愛し、私の羊を飼いなさいと要請し、初代キリスト教会のリーダー的役割を委託されたように、今を生きる私たちをも、同様に愛して下さいます。その愛は、十字架のイエス様の命から溢れ出た愛であり、憐れみと恵に基づく愛です。たとえ、私たちが何度も裏切ったとしても、そのことを承知で、受け止めてくださる神様の愛ですから、大事なことは、私たち自身の心の思い、過去の引きずっている思い、全てをあなたに委ねますという告白です。そのような願いをイエスは受け止めて下さいます。そして、言われます。私の羊を飼いなさいと。このお言葉は、一般的には教会の牧師であれば、めいめいの信徒のことを指しますが、聖書によれば本当の羊飼いはイエス様であり、牧師も一匹の羊に過ぎません。では、どのように理解するればよいのか。福音という良き知らせを携えて出てゆきなさいと、イエス様は全ての民に対して懇請しています。その要請に応える者の出先は、家庭から始まり、社会全般に及びます。初めに神が造られた美しい世界が、汚染され、不浄で悪臭を放つものとなることもあり得ますし、それが私たちの生きる現実かもしれません。人間、生きるためであれば多少は、しかたがないと、たがをはずし、元に戻せなくなることもあります。何故、人間は暗黒に迷い込むのか。それは迷子の羊として生きる道に置かれているからです。羊を探しにイエス様は来られました。羊はイエス様の愛情によって常に新しい命注がれて、この世界に送り出されてゆきます。その目的は、神様が造られたこの世界が美しさ、素晴らしさを取り戻すようになるためです。今週も、私たちは神様によって送り出され、また何処においても神は私たちと共にいてくださいます。恐れ敬うべき方は人間ではなく、全てを造り、全てを知っておられる神様だけであります。在主 牧師 山本龍一郎

2020/5/17 Sun 主日礼拝

聖 書: わが魂よ、待ち望め
宣教題: 詩編43篇1-5節

 おはようございます。5月17日、第三週主日を迎えます。今週もこのようにビデオを通して、皆様と礼拝の時を持たせていただきますが、小倉教会は現在、再開に向けて調整し始めております。再び、皆様には教会に足を運んでいただいて以前と同じように、この会堂で一緒に礼拝を献げる元の状態に戻ります。通常のスタイルに戻るということは大変、喜ばしいことでありますが、依然として新型コロナウイルスの終息とまでは至っておりませんので、今後は次のステップとして、新しい世界に順応しながら、感染防止を徹底しつつ、通常の生活を取り戻すというかたちになるかと思われます。ここ数ヵ月、新型コロナウイルス感染防止のため、人々は外出を自粛を余儀なくされて経済活動は停滞し、経済的なひっ迫による困難に直面している大勢の人たちは増加していることからも、再び経済を回していかなくてはならないという実情も私たちにはあります。勿論、教会も例外でありません。私たちが進みゆく未来は、平坦ではなく、山あり谷ありであり、予測のつかない事態や、願ってもいないような危機に直面することも少なくはないのですが、私たちを挫かせるもの、暗い思いにさせるもの、未来に進む行く勇気を失わせるもの、は、聖書によれば経済的なことだけではなく、人間の心、魂に傷つけ、不信感をもたらす、人間の偽り、よこしまな思いによるものです。詩編43編では、詩人が偽りを語る者によって追い詰められ、混乱しながら魂の叫び、喘ぎをもって、神の真と光を求めます。そして、詩人は聖なる山、シオンの山からエルサレムへと神によって導かれ、真実の神を見出し、喜びの賛美を献げ、心から告白します。「御顔こそ、わたしの救い、わたしの神よ。」と。
 この詩は、エルサレムから離された場所で、神を礼拝することができない状況に置かれていた者が、再びエルサレムに連れ戻してくれるように願い求めている詩であり、42編と関係があります。かつて、エジプトで捕囚民となっていたイスラエルの先祖たちの願いと告白でもあり、今日を生きる私たちにとっては、神ではないものを神として崇める者たちの罠、誘惑から助け出して下さいと願う、信仰生活における戦いの詩なのです。人間はお金、栄誉、外見、成功、健康など、現実の自分にとってプラスになるものを求めることは悪とは思いたくありませんが、金銭を追い求めることは悪であるとも聖書は教えています。第一テモテ6:10、「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまの酷い苦しみで突き刺された者もいます。」
 初めに神は人間を諸悪の根源として造られたのではなく、息ある被造物の中で最も優れた緻密な存在、この地上で良き管理者として世界を治めよと人間を造られました。しかし、人は神の元から離れ去り、神ではないものを拠り頼みとして生きるようになったため、神から怒りを買う存在となった。義人は一人もいない。全ての人は罪人となったのです。キリスト教は、何かあれば、すぐに罪人よ、神に立ち返れ!とやんやん言うイメージがあって嫌悪感を抱かれる方もおられます。教会で礼拝する自分たちは救われて、それ以外の人たちは伝道される対象者のように扱われ、罪から立ち返るように祈ってますと言われる毎に、教会には行きたくないと思ってしまう方もいます。実は私自身がかつてそうでした。お金だけが、健康だけが、外見だけが、その他諸々目に見えるものが自分を支え、幸せにすると私は考え、路頭に迷い、偽りの言葉に惑わされ、怯え、不安と恐れの中で、自分を本当に生かすものとは何であるのか、誰か助けてはくれないのかと悩み、喘ぎ、求めていたことに気づかされました。
 日本では、以前よりスピリチャルブームというものが起こり、それに関連する書籍やグッズが今も多く販売されています。多くの人が霊的なもの、自分を超える力、目には見えない何かとつながりたいという心、魂の願望に応えるように、日本全国にはパワースポットという場所が出現しました。このような現象は、現代人が如何に肉体も精神も疲れているかということの証左であります。物質的なものだけでは満たされない心の渇き、魂のうめきを満たすものを人間は求めるのです。その願望を解決するには、人間の根本的な問題、生きる意味、目的を見つける他に答えはありません。肉的なこと、霊的なこと、これら二つは、神によって造られ、与えられている故に両者は有機的に連結すのであれば、真の人間とされます。ところが私たちが生きるこの世界は、人間の強欲や争いが絶えない場所であるように、目に見えるもの、自分に利益をもたらすものだけが人間を幸せにすると惑わす世界です。神ではないものが、甘い香りを放ち誘惑する世界において、人間は躓き、堕落することがつきものです。悪に絡めとられ自らを失えば、人間は何かの奴隷となります。そのような人間の実態を神様は憐み、悲しまれます。私たちが人間に躓く原因とは、神でないものを神とするような自己中心的な思いで生きる結果、自ら掘った罠に落ちるということです。でも、神様はそのような私たちを見捨てずに、愛と憐れみをもって救い出して下さいます。
 「詩編43:5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ。」 この世に生を受けた人間は、成長して、大人になって、独り立ちし、その先、どこに向かって行くのか。若い時、多くの人にとっては選択肢もありますし、チャンスも多い、新しい生活への期待も色々と持てますが、そのような楽しみや、期待も持てない現実の中で混沌とする際、生きる意味と目的が分からないということは大変悲しいことであり、大きな問題なのです。何をしても満たされないという魂の呻きは人間の心を徐々に蝕み、希望なき思いへと至らします。しかし、求める者は最後に見つかるのです。「御顔こそ、私の救い」。このことは神と相まみえることができた人の感動であり、永遠という時間、世界を造られた神にのみ望みを抱く、これこそが人生の目的、人間が生きる意味であるといえます。その方は、光であり、私たちの暗闇を照らし、全てを明らかにして下さいます。私たちの過ちをも炙り出し、清め、赦し、再び新しく生きよと優しく神のお言葉を語られるお方、主イエス・キリストです。神は、御子イエスを、信じる者のための生贄、犠牲、身代わりとしてこの世に贈って下さり、イエス様は私たちの罪の身代わりとして十字架で死に、墓より復活されました。死んだも同然の私たち人間の罪がキリストの死によって赦され、新しい復活の命に与るようにと、神は御子をこの世にお遣わしになったのです。そのことを知らされ、信じることは私たちの力であり、それは神様が与えらる恵み、祝福です。私たちは、自ら、渇く心と魂に命の水を湧き出させるために、自ら努力するかもしれませんが、その努力の思いを全てを神様に向けましょう。なぜなら真の命は神様が私たちに与えて下さるからです。祈りましょう。在主 牧師 山本龍一郎

2020/05/10 Sun 主日礼拝

宣教: 恵みによる救い
聖書: 使徒言行録15章6-11節

おはようございます。5月10日の主の日を迎えることができました。小倉教会で通常の礼拝を中止してから丁度一ヵ月が過ぎようとしております。今、このように動画を通して皆様と一緒に礼拝のひと時を過ごすかたちにも慣れつつありますが、あまり慣れすぎてはよくないと思います。やはり、多くの人と一緒に集まって礼拝を捧げることが大事だと思います。何故なら、神さまは聖霊であり、人の心に働きかけて、共に集まる礼拝を求めておられるからです。人の思いは過ぎ去りますが、神の言葉だけはいつまでも残ります。いつかは過ぎ去る人の思いや、人の言葉に望みをかけるのではなく、決して消え去ることのない神のお言葉に望みをかけるのであれば、人はいつまでも生きると聖書は約束しています。今、コロナ疲れで気が滅入っている人が増えています。経済的な困窮、明るい兆しが見えない中で、誰もが混沌とした気持ちで過ごしているではないでしょうか。様々な疲れの中で誰もが汲々とした思いの中で耐えています。忍耐と試練にどのような意味があるのか、目的があるのかが判然としないのであれば、人は失意の中に、希望なき思いの中に徐々に沈んでゆくものです。
 2000年以上前、ガリラヤの湖で漁をしていた者たちの中の一人がペトロでありました。彼は、エルサレムから見れば、辺境の地であるガリラヤという地方の生まれ、何の肩書もない素朴に暮らす一介の漁師であったのです。そのペトロに声をかけらたのがイエスさまでありました。イエスは、ペトロとその兄弟、そして他の漁師たちにも声をかけて、彼らを弟子、後の使徒(神により遣わされた者たち)とされたのです。「あなたがたを、人間をとる漁師にしよう」とイエスは彼らを選ばれたのです。師であるイエスに弟子入りする入学試験があったとしたら、どのようなものだったのか。彼らが漁師として見事な腕前を披露したということだったのでしょうか。いいえ、そうではありません。見事な腕前を披露したのは漁師でなかったイエス様であったことから、彼らはイエス恐れ敬い、従ったのです。その目的は。詳しくはマタイによる福音書4章、ルカによる福音書5章をお読み下さい。

 「異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられた。」使徒15:7-8a 聖霊とは、神の風・神の息ということが元の意味です。ヨハネ20:22、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」、創世記2:7、主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。神は、福音の言葉をキリストの弟子、使徒とされた者たちに託し、異邦人、すなわちユダヤ人以外の者たちを信じる者として、招き入れられたと証言しています。その証拠となるものが聖霊が彼らの上に与えられたということです。何だか不思議なお話ですが、彼らの上えにとは天から降り注いできたようなイメージを私たちは心に抱きますが、ギリシャ語では通常、エンという言葉が使われています。英語ではINとなります。ですから、正確には彼らの内側にということです。神の息、聖霊はユダヤ人以外の人達の心の内側に入って下さったということ、その証左として、彼らはイエスを主、キリストと信じたということです。ところが、ユダヤの中心地、エルサレム教会の中には、元厳格なユダヤ教徒のものがいて、彼らが誇る古き良き慣習、モーセ律法の全てを、その救われたとする異邦人信者にも守らせるべきだと彼らは考えていたのでした。仕来り、慣習、それらは家を守るため、大きく表現すれば国を守るためにご先祖様から受け継がれた良いものであり、それを破ることはご法度などということに、私たちは直面することもあります。日本では、仏教にはその仕来りがあり、神道には仕来りがあり、キリスト教には日本独自の仕来りのようなものがある。時には違和感を覚えたり、時代錯誤と思しきことが今も続けられていることもあります。世界を見渡してみますと、今、コロナ感染防止対策で各国は空も陸も封鎖している状況ですが、世界はネットで繋がり、金融・経済も互いに繋がっているグローバル経済となっています。国々は互いに観光客としての外国人の誘致に積極的となり、歓迎します。その結果、多くの国は観光客を受け入れ易い環境を作ることを準備、より多くの人々が喜んでくれるものを提供する。外国人でも食べれる食事、文化へと変質していきます。国々のグローバル化は、自国利益第一主義であり故に、独自文化や古き良き慣習は過去のものとして存在価値が低くされ(後継者不足もあり)、現代風という謂わばもどきが提供されるような世界に変わっていっています。勿論、そうでない方や、国もあるかと思いますが。なかんずく、2000年前のユダヤ人は厳格でした。妥協しない、迎合しない、モーセ律法が中心・土台とした教会づくりをすべしと考えた人がいたのです。ところが、ギリシャ・ローマ方面へ宣教に遣わされた弟子たちは、異邦人社会の現実の生活・文化・歴史を目にし、神は彼らの文化・生活をも重んじておられることを知らされ、最も大事なことに気づかされていったのです。パウロとバルナバはエルサレム教会に異邦人の救われた人には、次の三つのことだけを守らせればよいと訴えました。
①偶像的なものに心を囚われ、それらを寄り頼みとしないよう気を付けること、②みだらな行いをしない、③絞殺した動物の肉と血を避ける。これら三つ、神の御心、み旨を聖書かた求めるのであれば、その内容は判るはずです。嘘つかない、強欲、傲慢にならなないということです。神の強さによって弱くされる、キリストにあって自己放棄することです。ペトロはエルサレム教会の保守的な人たちへ言いました。「信仰とは神の恵みと愛によって自己を放棄すること」と、一方で保守主義の人たちはいいます。「信仰とは律法を守ることによって愛を勝ち取ること」と。エフェソの信徒への手紙3:8でパウロは告白しています。「この恵みは聖なる者たちの中で、最もつまらない者である私に与えられた」と。自分の過ち、罪の悍ましさ、神に逆らって生きた過去の痛みをパウロは痛感すると同時に、神によって赦され、愛されていることに深く感謝していたのです。ことわざで、嘘は泥棒の始まりという表現があります。なぜ、嘘をつくのか、真理や光よりも人間は悪を自ら好み、暗闇の中に置かれているからです。神でないものを神のように崇めて、それが自分の欲求を満たしてくれる、自分にとって都合の良い神を人間は作り出します。信仰心ある人も、ない人も全ての人は、この地上に生きる限り誰もがこの誘惑にさらされています。そのために、誘惑に負け、強欲に身を任せ、過ちを犯してしまうのが人間であり、それを隠すためにうそぶくという生き方に至ってしまうのであれば、負のスパイダルの中に陥り、悩みと不安は解消されることなく混沌が続くことでしょう。キリストにあって自己放棄するとは、世捨て人となることではありません。自我や欲望の思い、自分自身の正直な思いを信仰によって神に委ねる、告白する、祈るということです。神の強さとは、イエスがキリストとして高められるまでに、最も弱く、小さくされた、無力とされたことに私たちが目を向け、自分の弱さをそのイエスの十字架に重ね合わすのであれば、神が御子を復活させた新しい命によって、私たちをも強くしてくださるという逆説的なことです。その命は、私たちの行いや功績によって与えられるものではなく、無償の愛、無償の恵みです。神の恵みはひも付きではないからこそ、素晴らしいのです。この世界は、持てる者、持てない者が、分断されてしまう世界です。ここ最近はコロナ分断があらゆる場所で生起しています。差別、区別、優劣意識の芽生え、それらは古から為政者が政治利用するために用いた手段であり、覇者の独善を保持するための手法でありましたが、今の政治家は誠実に、霊と真をもって神に仕え、人に仕える者となっていただきたいと祈念いたします。また、私たち自身も聖霊を我が心の内側に日々、迎え入れて、神の御心、み旨に敵う者として神に仕え、人に仕える者となれますようお祈りいたします。在主 牧師 山本龍一郎

2020/05/03 Sun 主日礼拝

宣教: 聖霊の聖めに与る
聖書: 使徒言行録8章14-24節

 5月3日の主の日を迎えることができました。本日も、皆様と礼拝のひと時を持てますことを心より感謝いたします。昨日は、夏日となるほどの暑さを感じる日となりました。草花は太陽の日差しを受けて、より一層新緑が眩しくなる季節です。私たちも神様の光に照らされて、心身ともに強くされて、喜びと感謝に満たされて、神のみ名を褒めたたえることができるようにと願います。今日もみ言葉から学んでいきましょう。
 今朝の聖書箇所は新約聖書の使徒言行録からです。使徒とは英語でアポスル、門弟・弟子・門下生という意味です。誰から教えを受ける立場にある人のことです。使徒たちは誰から教えを受けたのか、それはイエス・キリストからです。イエス様は彼らを選び、悪霊を追い出す権能を授け、彼らを通して福音、良き知らせを世界中の人々の上に伝えることを計画されたことによって、彼らに使徒という名称が与えたとマルコ福音書3章14節には記されています。そのようなことからも、彼ら、使徒とされた者たちの根源的な意味は、神より派遣された者たちということになります。神より派遣された宣教者としての自覚、神によって命じられたという確信が彼らの思いの中にあり、彼らの言動の中に神のしるしが伴い、宣教は押し進めてられてゆきました。
 使徒の一人、フィリポの宣教によってサマリヤの人たちへ神の言葉が伝えられました。その時代から4、500年前に起きたイスラエル南北分断後の両国滅亡、所謂バビロン捕囚という悲劇が起きた後、解放者ペルシャのキュロスによって、多くの人々が再び祖国に帰還することことが許されるのですが、北側、サマリヤにいた人たちと、南側エルサレムにいた人たちとの融和は実現されず、互いに交際しないという不仲になっていました。そのような状態に至るまでに、いくつもの争いがあり、当時の人々にとっては悲劇であり、歴史の痛みでもあったのですが、その根本的な原因は、イスラエルの民の神に対する罪の結果であると聖書は言います。神ではなく、人間や武力を拠り頼み、彼らは近隣諸国と争い、自分たちの進むべき道を誤って、迷える民となった聖書は言います。イエス様は、人間同士の間で生じる分断、分裂、争いによって生じた憎しみ、十字架によって完全に赦し、清め、和睦を創り出すことがおできになります。サマリヤ人が福音、即ちイエスを信じるという信仰を受け入れたということは、まさに神による奇跡であり、人間ができることではありません。神様は使徒たちを通して、福音宣教されたのです。ペトロもヨハネもサマリヤに下りました。ところが、そのサマリヤの人たちは、聖霊を受けていなかったと書かれています。そして、その地域において魔術を生業としていたシモンという男が、使徒たちが人々の上に手を置くと彼らが聖霊を受けたので、お金を出すので自分にもその力を授けて下さいと申し出たと書かれています。

 ペトロは言った。「この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。8:21 お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。8:22 この悪事を悔い改め、主に祈れ。そのような心の思いでも、赦していただけるかもしれないからだ。8:23 お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られていることが、わたしには分かっている。」8:24 シモンは答えた。「おっしゃったことが何一つわたしの身に起こらないように、主に祈ってください。」(使徒言行録8:21-24)

 神を信じるということは、どのようなことなのか。自問自答してみますと判ります。目には見えず、感じることも出来ないもの、奇跡の神話のような話であれば、世界中には数えきることができない不思議な話がありますし、唯一の神がいるとは思えないようなこの現実の世界の中で私たちは四苦八苦しながら懸命に生きています。今、世界中が新型コロナウイルスの脅威に晒されて、汲々としています。世界の誰もが自国の経済発展を願い、未来の生活はよくなってゆくと信じながら、励んでいると思われますが、同時に誰もが避けて通りたい災いが、起きるかもしれないという不安の中で生きています。コロナの感染者は日本では現在も、更に増えていますし、亡くなられる方も減少しているとは言えない中で、もはやこれは他人事ではなく、全ての人が当事者であり、自分たちに影響する状況となっています。サマリヤの町で、魔術師として生活をしていたシモンは詐欺師だったのでしょうか。今日でも占いや、手相、魔術的な力に魅了されて、元気になる人たちがいるように、2000年前のサマリヤでも、そのような人たちは大勢いたようです。不思議な魔術による幻惑は多く人たちにとっての慰めや力の源として、受け入れられていたのかもしれません。シモンという魔術師は、使徒たちを通してサマリヤの人たちに与えられる聖霊(神の霊)を自分にも譲ってほしいと正直に申し出ます。このことは、神を信じる=神の力を受けて更に自分の生活もよくなるという発想ではないか。キリスト教はご利益信仰ではないと言いますが、人間の心と体は、単一で素朴・純粋な思いによってだけで成り立っているものではありません。クリスチャンであっても病に掛かれば、必死に癒しを祈りますし、その苦しみ痛みが神の御心なのですかと神様に問いかけます。経済的困窮に陥れば、必要が満たされますようにとも祈りますし、自分が生活してゆく日々の必要が与えられるように祈れとイエス様も勧めています。聖霊とは?それは私たちの目には見えませんし、愛も恵み同様に見えません。感じるものなのでしょうか。たとえ感じたとしても、それが本当に聖霊なのか私たちは、簡単に判断することはできません。
 では聖霊は何であるのか。聖書の神様の言葉を信じ、それに従うということを誰よりも為さったのは、イエス様です。その方は罪を犯さなかったとも記されています。イエス様はどのような人をも憎まず、貶めず、呪わず、危害を加えるようなことをされず、只、御父なる神様のお言葉にある自分に課せられた使命を果たされたお方、キリスト、救い主です。その方は、自分が生きる意味、目的、帰るべき場所、全てを知っておられました。神が為さることに自分を置かれたのです。だから、神の目に正しいのです。
 私たち、この地上で呻きながら、不安と恐れを心に抱きながら生きる故に、神の言葉を知りながらも、それに従わず、それを忘れて、彷徨う故に、神の目には正しいとは言えない存在であるといえます。何を第一として生きれば良いのか、混乱していることこそが罪の中に留まっているということです。シモンという魔術師は、自分を凌駕する使徒たちの存在に脅威を感じたことでしょう。自分に対するサマリヤの人たちからの関心を失えば、この先、自分の収入に影響するので、その使徒たちが人々に与えた聖霊を自分にも分けてほしいと思ったのでしょう。人間は、日々の糧のことで思い煩うものです。家族がいる、会社経営しているのであれば、従業員もいる。誰もが今日の必要を第一と考えたくなるものです。しかし、聖霊は、そのような人間の現実の生活の必要を得るための手段ではありません。神の霊であり、イエス・キリストであり、父なる神様が聖霊です。聖霊は、唯一の神様、愛と恵に富まれる神様の人格を確信させる霊です。その霊は、私たちがこの世界の現実で日々、悪より離れて、神の義を求めて生きること、憎しみや怒りより離れて、神の赦しによる平和と希望の内に生きること、信仰がなくならないように生きるようにと励まして下さる方です。ですから、それを商業利用のために用いるということは、よくないことなのです。もし人間が聖霊を商業利用するのであれば、その人は人を恐れて、神を恐れずという結果になり、その人は傲慢になり、最後は行き詰ってしまうことでしょう。それは本人にとっても、神様にとっても滅びの現実となるのです。神はそれを望まれません。聖霊は、イエス・キリストを確信させることがおできになります。イエスとは、キリストとは、私の友であり、私の救いであると人間に証言させるお方です。その霊を私たちは無償で受けて、信じる者とされます。
 日々の人間の営みも大事なものであり、未来の人々のためにも、世界の国々の環境は整えられてゆく必要がありますが、神の国と神の義を第一とし、現実の生活をその次に大事にするのであれば、私たちは世の混沌に迷い込み、悪魔の罠より守られることでしょう。今、コロナの影響で、経済活動が停滞したことによって、世界の国々の大気汚染が大幅に減少し、川や海の水質も日ごとに良くなっているといわれます。人間が意図しなかった要因で自然環境が浄化されてゆくように、私たち人間の心も魂も、神の御人格である聖霊を受けて、日ごとに清められ、つくり変えられてゆくことに期待するのであれば、この先の未来は明るくなることは間違えありません。今週も、キリストという不動の岩の上に、しっかりと足を据えて、それぞれご自分の人生をスタートさせて下さい。在主 牧師 山本龍一郎

2020/4/26 Sun 主日礼拝  

宣教: 袋小路から始まる未来
聖書: 民数記14章1-10節

 今週も皆様と主の日を迎えることができました。皆さん、一週間、お元気で過ごされましたか。私たちは共に耐え忍ぶしかない日々を過ごしております。この先、どうなってしまうのだろうかと誰もが不安を感じながら過ごしていますが、そのようなことは、3000年以上前にエジプトからパレスチナ地方へと神によって導き出されたイスラエルの民も経験されいることです。彼らの不安と恐れに目を留めてみますと、その苦労は大変なものであったことが分ります。エジプトで苦役を課せられたイスラエルの民の呻き声を聞かれた神様は、彼らをそこから救出し、約束のカナン地方へ彼らを導くためにモーセというリーダーを立てられました。モーセに民は従い、彼を通して神は大いなる御業を現したといえます。そのことはかつて、この地上の全ての民の中から神によって選び出されたアブラハムと神様が交わされた契約に基づく出来事であり、神様はイスラエルという民を通して、ご自分の契約を成就させるために、エジプトからカナンの地に、彼らを導き出されたのでした。カナンへの入植を目の前にして、モーセも、その兄アロンもヌンの子ヨシュアも皆、不安と恐れに駆られるのですが、彼らは神様への信仰をもって前進して行ったことが民数記には記録されています。
 乳と蜜の流れる地、そこは現在のイスラエル辺りであり、そこには既に豊かな文明が開化し、豊かな作物が実る大地も含まれる潤った場所でした。モーセはヌンの子ヨシュアと他に何名かをカナン地方偵察のために遣わし、そこが豊かな土地であることを確認したのですが、豊かな地域であるからこそ、自分たちが入植すれば、数々の民族と武力衝突するに違いないとイスラエルの民は恐れたのです。荒れ野での40年の試練の旅路の先に、カナンでの紛争が見込まれるというは、共同体全体にとって更なる不安と恐れとなり、民は夜通し泣き言を言った。「神は自分たちを剣で倒すために、ここに連れてきたのか。そうなれば妻も子も奪われてしまう。エジプトに帰る方がましではないか」と考えたのです。まさに、進んでも苦難、引き返しても苦難となることが想定される中で、彼らは立ち止まり、モーセもアロンも沈黙して会衆の前で、神にひれ伏すしかない状況となりました。一方、偵察部隊となったヌンの子ヨシュアは、民に対して前向きな意見を述べます。「我々が神の御心に適うのであれば、主はあの土地に導き入れて下さる。恐れてはならない」と。民は怒り、その意見を聞こうとはしませんでした。神に選ばれ、神より授けられた律法によって、他の民とは違う特別な民とされたイスラエル、彼らは神の目に特別な民であったにも関らず、彼らの歴史の多くは過酷なものとなりました。エジプトでの苦役を課せられた捕囚の時代、後のバビロン捕囚、紀元70年のユダヤ戦争、近代ではナチスドイツによるユダヤ人大虐殺という試練、塗炭の苦しみを経験した民であることは事実です。もちろん、他の国々の人々もそれぞれの歴史の中で同じような苦しみを経験しているとも言えますが。今日の世界では大きな戦争が起きれば、この地球上の全ての国がその紛争に巻き込まれてしまいます。第二次世界大戦がそうでした。そして、恐ろしい疫病が蔓延すれば、同様に瞬く間に全世界の国々へと広まってゆくことを、今私たちは身をもって経験しております。どんなに科学や医療が発達しても、人類は常に新しいウイルスの脅威に晒されているといえます。そして、経済活動が衰退し、誰もが汲々となり、世は荒廃し、争いが引き起こされるというサイクル、歴史は常に同じことを繰り返すといえます。今、一カ月以上、誰もが不要不急の外出を控えて、自宅に留まることをせざるを得ない状況となりましたが、出不精の方は何とかなっても、そうでない人にとっては、時間が止まってしまったような感覚に囚われてしまっているのではと思ったり致します。毎日、自宅で同じことを繰り返す、恐れと不安の中で。この先にどのようになるのか、誰にもわかりません。そうです。私たちには、明日のことは分からないのです。明日を思いわずらってはいけません。明日自らが思い悩むからです。神様はイスラエルの民を選び出し、彼らを通して、自身の計画を成就することをなされました。彼らが嘆き、恐れ、立ち止まり、不安の中で自暴自棄になりかかった際、神は彼らの前にご自身の栄光を現わされたのです。その栄光とは、人間が神が常に私と共におられるという確信を得るに他なりません。神が共におられるという慰め、それは錯覚や幻想に過ぎないと、一蹴する人間の理性主義も私は否定はしませんが、それでも聖書の言葉が生きて、多くの人を励まし、慰め、罪を暴き出し、死から生へと人々を導き続けている書物であることは事実であり、神は生きていると証しする人々が今も呼び起こされている故に、100パーセント神はいないとは言い切れないのです。
 神はイスラエルの民を通して、ご自身の計画を成就させることをお決めになりました。その目的は、全ての国々が真の神の臨在を知るためであり、大いなる救いに与り、悪より立ち返り、神のみ名を称えるようになるためです。モーセとアロンと、ヨシュアと一部の者たちを除いて、民のほとんどが恐れと不安の中で、エジプトに戻ろうと考えました。恐れと不安は、人間の情念を高める引き金となります。勿論、そのような負の力が有効的に芸術や音楽に反映されて、人間にとって慰めを齎すものを生み出す結果に至ることもありますが、人間の情念が、神から人間を引き離すのであれば、人間は神ではなく人間に従うという結果に至り、自ら滅びの道に進みゆくということも起こります。神でなく人間を神のように崇める、頼るということを第一主義とするのであれば、その人は闇の中を手探りで生きるという状態になるのです。そして、人間が人間に不信感を抱き、絶望するのであれば、その人はもはや人間でなくなるということです。実に恐ろしいことです。どのような時にも、神の国と神の義を求めるということが、如何に大事なことなのかを、恐らく私たちは自分にとって大事と思っていたものを失う際、気づくものです。自分の正しいと思っていた判断が誤りであったということから、人間は多くを学ぶのです。モーセは約束の地であったカナンに入ることは許されませんでしたが、その思いはヌンの子ヨシュアに引き継がれていきました。そして、ダビデの時代を経て、キリスト・イエスに至りました。神はキリスト・イエスを通して、人間を正しい道に連れ戻されます。キリストは、私たちが頑なとなり、自分の正義を振りかざして他者を裁く、蔑ろにする、利己的な生き方において引き起こされる人間の罪の実態を暴き出し、その罪の身代わりとなって自らが十字架で犠牲となったことを確信させることがおできになります。罪の内に生きる者が、恵によって神は愛であったことを知るようになり、永遠に神のみ名を賛美するようになるためです。今、行き詰ったような閉塞感を誰もが強く感じます。その閉塞感の中に神は共におられます。その神様は、静かに私の時を待ち望むようにと優しく声をかけて下さるお方です。恐れと不安の中で、良いものを選び取ってください。主の恵みと慈しみを思い出しながら今週も、主にすべてをお委ねしながらスタートしましょう。牧師 山本龍一郎

2020/04/05 Sun 主日礼拝

宣教: 苦しまれた神の子
聖書: マルコによる福音書15章33-41節

「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15:34-35)

 全世界を震撼させている新型コロナウイルスに脅威の下に晒されている私たちの生活が再び神の御心にかなうものとなりますように祈り願い求めます。主イエス様は「目を覚ましていなさい」、「心は燃えていても、肉体は弱い」と弟子たちに教えられた後、立ち上がり十字架へと向かいました。この教えは、一時的な感情や感傷的な思いに駆られて自分の願いを実現するような祈りを献げるのではなく、私たちが神のご計画に沿った祈りに徹し、確かな日々を生きるようにとの勧めです。どのような状況下においても、信仰者は常に神を忘れずに生きるということを第一とすることです。そのような信仰者の姿勢は、世が欲する願いから浮世離れしていると思われて、嘲られることもあることでしょう。不利益を被ることもあるかもしれません。しかし、キリストのために苦しむ機会を与えているのは神様であり、試練と苦難の中で信仰者は鍛えられ、揺らぐことのない者へと造り変えられゆくのです。嘲られ、見捨てられ、心と体に最大の痛みを負われたキリストの忍耐に目を向けましょう。その姿は、信じる者にとっては神の赦し、励ましであり、復活への希望なのです。牧師 山本龍一郎