小倉伝道23年の回顧

はじめのことば

 わたしに関係のある小倉伝道のことを、いつかは纏めてみたいと考えていたのですが、毎日多忙に追われているのと、資料も疎開する時に大部分焼いてしまったので、その不安もあったのですが、今度小倉教会の教会組織60周年記念会にお招きを受けましたので、あらためて真剣に物置をかきまわしたところ、会報の大部分が見つかりましたため、大急ぎで毎晩12時過ぎまでかかって、兎に角このような形にしてみました。が不完全であることはまぬかれません。
 内容は、特別集会と、出来事だけを拾って、それに若干わたしの感想とも説明ともつかないものをつけ加えた程度にすぎません。個人的なことにまで及ぶといいと思ったのですが、今のところでは、これ以上のことは、時間的にも、経費の面でも出来そうにありません。
 応援して下さった講師でも、内部の方や近隣の方々の分は省かせて貰いました。あまりに冗長になりますので。こういう形にしてみますと、人頼みだけして自分では働かなかったように見えますが、会報によると、忠実に定時集会を守っていますから、必ずしも人頼み主義といわれるいわれはないようです。
 それしても応援の回数が多いのは事実です。これは北九州が地の利を得ている関係だろうと思われます。満州、北支、中支は勿論のこと、台湾、沖縄方面への旅行にも、一寸一服といった位置にあるのが北九州です。で、わたしなど大変得をしたというこおとになるそうです。
 それにしても小倉教会の60年間中、23年ご奉仕が許されたということは、非常な感謝です。練兵場の真中の一本松の下や、広寿山の座禅石の上で祈りながら、色々と教えていただいたことを思うと、小倉はある意味でわたしたちにとっての母であるような気がするのです。この回顧が、後々の人々のために少しでも参考になれば、望外の幸です。

1963.10.8 夜0時
東京 西荻窪にて

大正9年(1920)

 3月 1日 小倉に着任。
   28日 会堂献堂式。
 4月1~3日 第18回西部組合年会、「五年運動」決議。
       湧金幼稚園開設、園長ミス・チャイルス 顧問片谷牧師。
 8月    東京に世界日曜学校大会開催され、市内3教会牧師上京。片谷留守居役にな
       り、市内4教会連合にて映画「小公子」鑑賞会開催、盛況を極む。収益多く
       本部献金をしても残金があったので、各教会SSに基金を分配した。

 44年前のことになる。前年神学校を卒えて、北海道の根室教会に赴任し、約束の期間を終り、仙台に帰って宣教師と協力していた私が、小倉教会の招聘を受けたのは大正9年の1月下旬であった。同期の卒業生であった熊野は門司に、田中は若松におり、ボールデン宣教師も神学校の教師であった関係で、話は早かったものと思われる。2月11日に応諾の返電をして、15日に家内の郷里の青森県八戸市を立ったが、その朝長女明子が生れたのであった。
 途中自分の郷里を訪ね、仙台によって荷物を纏め、級友の沢野良一が牧していた水戸の教会に立ち寄ったが、そこでスパニッシュインフルエンザに罹って1週間余り寝込んでしまった。東京では神学校長のテネー博士が忙しいところをわざわざ昼食に呼んでねぎらって下さった。
 翌日東京駅を立つ時には、天野栄造、中島力三郎、渡部元といった大先輩が見送って下さった。その時の感激は今も忘れない。
 下関には熊野が出迎えてくれて、私の竹行李をかついでくれた。差し当たりの宿は熊野宅(門司の牧師館)だ。牧師が着いたと聞いて小倉教会の執事の倉田秀太郎、石田岩太郎両氏が門司の牧師館まで来て歓迎してくれた。そしてその翌年3月1日に、紺屋町4丁目141番地の小倉教会に行って見た。それが着任ということであった。私が25才の時だ。
 しかし感冒の後、早く動きすぎた為か、黄疸に罹り、それから2週間静養の止むなきにいたった。静養の場所は熊野方だ。彼は先妻に死なれ、母堂と2人暮らしであったので、気楽であったし、母堂は親切に世話して下さった。その時の親切は今も忘れてはいない。
 その年の小倉教会の執事は前記の2氏と筑山保次郎氏であった。2週間後小倉に移る前日、筑山夫人の世話で、自炊道具を買い整えた。そして、翌日から説教した訳だ。朝拝の後、予め教会が借りて置いてくれた堺町(円応寺筋)5丁目の東角にあった住居に行った。その家は馬丁の住居であったとのことだが、2畳の玄関と6畳と3畳の室に2畳の居間といった造りであった。庭の木に夏蜜柑がなっていて珍しく、かつ美しく感じたことを思い出す。しかし同年夏、鍛冶町5丁目の横丁の二階家に移った。
 それから4月の半ばまで自炊生活が続いた。それまで私には自炊の経験がなく、飯のたき方も知らなかったので、婦人会の人達によく笑われたものだ。が見るに見かねたのだろう、石田執事夫人千代枝さんが、「これから1時間早起きすることにしたkら、先生の台所を手伝わせて貰いたい」といって来た。地獄に仏の思いで頼んだ。夫人は英男君をおんぶしながら手伝ってくれた。その有難かったこと、今も心の暖まる思いがする。
 最初の聖日に日曜学校に行って見ると、20人足らずの小学生が、椅子を飛び越えて遊んでいた。まずその人数の少ないのに驚いた。その理由は後でわかったが、仏教殊に真宗の盛んな土地柄だからである。次に驚いたのはその乱暴さだ。宗教教育どころの騒ぎではない。「君たちは何のために日曜学校に来ているのか」というと、現下に「遊びに来ている」という。私は「そんな者は1人も来るな」と大喝してしまった。
 その時の現住教会員の名簿上の数は15人であったと記憶するが、実際に出席する会員は7名前後で、最後まで出席しないでしまった会員も2名ほどいた。前任者は前年末までいたのであるが、会堂建築がやっと終り、裏の宣教師館の改造中で、庭は荒れていた。敷地は304坪、角屋敷で四方煉瓦塀で囲まれて正方形をなしていた。以前は宣教師館の屋敷で、その前年までウイリングハム夫妻が居住していたということだ。
 まず献堂式だ。それに年会が続く。ホット出の青二才が、目をまわしたことはいうまでもない。家内の貯金を引き出してフロックコートをつくるやら、靴を買うやら、身の廻りのことから整えねばならなかった。献堂式も年会も無我夢中ですごした。熊野は一緒に泊まりこんでいて、フロック姿で七輪をバタつかせたり、豆腐買いに走るという有様であった。その時の西部年会が、五年運動を決議した年会として記憶される年会であった。今にして思うと定めし先輩達に不満や無礼をお与えしたことであろうと思う。何分にもそれまでは、何でもして貰う立場にいて、人にしなければならない立場はこの時が最初であったからだ。
 間もなく夏になり、市内の信教の3教会の牧師が、東京で開かれた世界日曜学校大会に出席すべく上京したので、私は留守居役として、本部が募金のために計画した映画会の采配をふらねばならなかった。若い時はいいもので、盲蛇でやってのけたら大当たりであって、大変に気をよくしたものである。
 しかし暑さにはかなり閉口したものだ。月曜日には両隣の同僚の所を順番に廻り歩いてご馳走にありつくことを楽しみにしたものだ。
 新装なった牧師館には、新任のミス・チャイルズ(後のミセス・ローウ)が住み、湧金幼稚園がその年から発足した。園長はミス・チャイルズで、私は顧問ということであったが、むずかしいいやな役目は大抵私の方に廻って来るのが常であった。最初の幼稚園教師は、八幡からの佐藤いし姉と若松からの高橋とみ姉であった。佐藤姉は八幡の会員の遠山兄の義妹で、高橋姉は後にルーテルの大熊牧師の夫人になった人だ。

大正10年(1921)
  1月 教会々報発行を騰写版印刷で開始。
  2月 信徒の各家庭の女中招待会開催。
  3月 献堂記念特伝に海老名弾正氏招聘。
  4月 前任宣教師ウイリングハム未亡人来日(下関居住)
  5月 矯風会講演会開催。講師矢島揖子、久布白落実両氏。矯風会支部結成
     、片谷夫人が支部長に推された。
    ・仏教済世軍並びに国柱軍の反基督教運動猛烈なため、関門北九州信徒大会を開催。
  6月 東京より吉原、高階両氏を聘し、大音楽会開催。
    ・宣教師ローウ氏、ミス・チャイルスと結婚。
  7月 特伝に九大教授荒川文六氏招聘。
    ・片谷牧師に1ヶ月の夏休みと、その費用を贈った。
  9月 矯風会講演会開催。城のぶ女史講演。
 10月 教会自給独立5ヵ年計画決議(ミッションボードの主事レーイ氏来日に際し
     表明のため)。
 11月 市内教会連合にてクリスタスの映画会開催。
    ・特伝に斎藤惣一(YM同盟総主事)
     曾根三治(西南学院教授)両氏招聘。
 12月 ロシア児童自由画展覧会開催(会場天神島小学校講堂、市学務課後援、全市の
     小学校より多数参観す)。
    ・一方東京YM主事矢部春男氏を聘し少年少女大会開催(会場トキワ座)

 就任2年目になって動き出し始めた格好だ。まず1月から教会々報謄写版で発行し始めた。プリンターは小学校教師の佐藤静姉であった。前宣教師ウイリアムハム夫人が来日して下関に住んだが、同師がランカスター師を米国から同道して来日したのであった。
 この年は海老名弾正先生を始め矢島、久布白、荒川、城と、大物の応援があったことが目立つ。当時の地方教会としては珍しいことであった。
 しかし特筆すべきことは、仏救済世軍や国柱軍等の反キリスト教運動の盛んなことであった。どこの教会員でも目ぼしい信者であればその門前にいつて、反キリスト教演説をぶつといった有様であった。若松の牧師の田中種助が負傷したのもこの年である。従って北九州の信徒大会が再三開かれたものである。
 音楽大会を開催したなど、今考えるとやはり若気の至りというほかはない。
 ロシア児童の自由画の展覧会は、東京YM矢部氏がシベリア出征軍人慰問に赴いた際に持ち帰ったものを使ったのだが、小学校の講堂を借りたり、市学務課の後援を得たり、全市の小学校にチラシを配ったり、随分大胆なことをしたものだ。しかしおかげで、自分も自由画を見る目を与えられたように思う。
 少年少女大会では1人5銭の入場料をとったのだが、勝山劇場が超満員で、市当局が余り行きすぎる心配されたということであった。
 兎に角、信徒は少なく迫害があるので、何か動いていないと踏みつぶされる不安があったものと思う。一般人は今日ほども宗教にもキリスト教にも理解のない時代であったから、文化とタイアップして伝道することが必要であったのである。
 この年の執事には、米国帰りの久我好平氏(マホー瓶会社の技師長)が加わって教会に新風を吹きこんでくれたものだ。

写真:前列左から五人目が片谷牧師、その隣はランカスター宣教師

大正11年 (1922)

  1月 当教会の五年運動具体計画決定す。
  2月 市内連合にて賀川豊彦氏を招聘し、2日間6回の特伝。朝昼は他教会、両夜は当
    教会にて開催、1夜は630名、2夜は800名の出席者。
  4月 片谷牧師外4人、宮崎県茶臼原に岡山孤児院を視察す。
  5月 会堂三階に納骨所並びに祈祷室を設備。
  8月 沖野岩三郎氏を聘し、文化講演会並びに少年少女大会開催。
   ・県立高女講堂を借り、フレコビアンソナイティー管弦楽大音楽会開催。
10月 片谷牧師のため按手礼会議招集、按手礼式開催。記念にバプテスマ用ガウン寄贈。
   ・特伝のための千葉勇五郎氏招聘
   ・片谷牧師義父死亡、実母危篤のため、二度東北に往復。
11月 矯風会講演会開催。守屋東女史講演。

 
 この年の大事業は何といっても賀川伝道だ。3年越し、何度も足を運んで懇請して神戸貧民窟の聖者に来て貰ったのだ。そしてこれが賀川の九州伝道の最初になった。彼は夫人と共に台湾に赴く途中を割いてくれたのだが、1回に600とか800とかの会衆を集めたのだから当時としては珍しいことで、市民の間にもキリスト教の認識が大分広まったように感じたものだ。この運動は市内教会の連合であったが、責任は当教会で負ったので、会計は力丸良之助氏であった。宿は播磨屋。宿賃を前払いしてなかったといって、賀川氏に、力丸兄と共に文句をいわれたことを覚えている。それほど我らが世間知らずであったのである。
 大正11年は、神戸の川崎造船の3万5千人のストライキを賀川が指導した翌年。八幡製鉄所の、溶鉱炉の火は消えたりの翌年でもある。八幡の浅原健三は賀川の弟子でもあったから、賀川が北九州に来ることは、極度に警戒されたものらしい。まず特高や憲兵が方々で誘導尋問の形で私の身上を調査した。賀川の集会は全部プリントを使うので、その用意だけでも容易ではなかった。会堂の椅子は全部外に出して、質屋から古い軍用毛布を借り集めて敷くという騒ぎだ。私は終日人力車を借り切って飛び廻るという有様。食事も1日1回しか摂られないことも珍しくはなかった。その時多少でも手を貸してくれたのは、日基の藤井金之助長老であった。私の留守中には、新聞記者と特高の刑事と憲兵が入れ替わり立ち替り訪ねて来るので、家内は手洗いに行く間もなかったといっていた。
 いよいよ開会の前日の朝、小倉警察から使いが来て、八幡警察に出頭せよのこと、何の用かというと、無届ポスターを貼った件だという。それは前日矢野執事が貼ったのだが、彼は鉄道の官吏で面倒だから私が出ていった。行ってみると「被告片谷武雄は」ということで刑事室に5時間の検束だ。訳書を書いて起訴は免れたが、被告呼ばわりされたのは、今迄にこの時ばかりだ。
 その夜8時頃帰宅すると、翌日立って渡米する執事の久我好平氏が待っていた。送別のための会食の約束であったからだ。
 翌朝朝正木家の使いに呼び起された。高女生で会員であった娘が赤痢で危篤だ、先生を待っているからということで、駆けつけたが2分間ばかりの差で間に合わなかった。

 朝拝説教をしていると、小倉の特高課長が部下を2人もつれて出席している。終ると九州日報を指し出して、「我々は大変困る、署長も心外だといっている」という、新聞を借り受けて棺を迎えに行く人力車を上で見ると、3段ぬきで「小倉警察署片谷牧師を圧迫す」と大きく出ている。私を検束したのは八幡署だ。しかし日報と八幡署とは同系の政党関係があったので、小倉署にしたものらしい。こうして私は段々と世間の事を教えられたのだ。
 その賀川伝道中に、彼の視線を越えて(下線で表示されている)の初版が書店に着いたので、早速店員が会堂の玄関に出張して売ったが、その店員が数年後に信者になった。
 就任3年目に教会が片谷に按手礼を授けるように取計らってくれた。当時の執事は矢野常一、久保幸太郎の両氏らで書記は田村(今の安田)柳芽姉であった。会報のプリンターも田村姉に移っていた。
 沖野氏による運動も、音楽会も、文化運動に類するものといわねばならない。
 この秋、牧師が親族の不幸のため2度も東北に往復を余儀なくされたことは、真に止むを得ないことであった。

大正12年(1923)
 1月 伝道機関誌生命創刊(但し牧師個人の経営)。
 2月 レコードコンサート開催。
 6月 婦人会主催のバザーを開催。その利金で折りたたみ式の補助椅子を買って教会に寄附した。
 9月 関東大震災のため金森伝道延期。震災罹災者救済運動を起し、主として赤ん坊の
    産着を製作送付。
   ・木村清松、賀川豊彦両氏震災報告をかねて募金に来た。
10月 五年運動の一つとして金森通倫氏を聘し3日間大伝道会開催、出席者数875名、
    決心者250名、志願者会出席者数190名、バプテスマ志願者48名。年末まで
    毎聖日バプテスマ式執行。
11月 九大教授荒川文六氏招聘特伝。
12月 SS西分校(梶谷多賀二氏宅)、並びに戸畑講義所及びSS開設。

 この1月から文書伝道の目的で、月間生命誌の発行を始めた。而も牧師の全責任に於いてだ。最初数回ボールデン宣教師から援助を受けたが、他は有志の少額な賛助寄付金を受けただけで、200号をこえ、大東亜戦争が烈しくなって政府から廃刊の勧告を受けるまで続けることができたということは、今考えても不思議である。当時の私の受ける謝礼は100円に満たなかったように思う。
 9月の関東の大震災は壮絶悲惨そのものであった。募金をし、綿ネルの反物を買い求め、女学院の生徒に産着を縫って貰って、イエスの友会を通して配布して貰った。
 大震災のため9月開催の予定であった金森伝道が10月に延びた。この運動には全力を傾けた。幸に震災で東京に帰られなかった学生矢野氏続君と、ローウ宣教師から預けられて書生の片岡望作君との2人の協力を得て、7日間にわたって毎夕、魚町、大阪町の電停中心に約5万枚のチラシをまいた。そのため道路はチラシで真白になったものだ。当時は都市美化運動などというものがなかったから文句もいわれなかった。2夜で875名の記名者を得、その年の内に受信した者が48名であった。10月下旬以後毎聖日の朝夕交互にバプテスマ式を執行した。そのため私は膝に神経痛を起したほどであった。
 青年も殖えたので日曜学校西分校、三萩野分校、戸畑分校、長浜分校、貴船町分校、中津口分校と、一時は分校数8校に達したことである。それは全部青年の奉仕事業であった。明専三沢、豊福両君は寮を出て長浜で空家を借りて、原田、徳本両君は貴船町で自炊しながらという意気ごみであった。

大正13年(1924)
 1月 特伝のための斎藤惣一氏招聘。
 3月 原三千之助氏(姫路教会牧師)招聘。
   ・菅野半次氏(鹿児島教会牧師)招聘。
   ・SS新生讃美歌講習会開催(市内連合、講師田中羽後氏)
   ・片谷牧師西部年会に於いて理事に推さる。
 6月 菅儀一氏(東京YM主事)来援。
   ・野辺地天馬氏(童話家)来援。
 7月 婦人会主催のバザー開催。
 8月 武本喜代蔵氏(自由伝道者)来援。
 9月 本間俊平氏(秋吉の聖者)来援。
10月 木村清松氏(天満教会牧師)来援。
   ・教会の自給自足決定。
   ・片谷牧師夫人幼稚園教師となる。
11月 婦人伝道師大井邦子氏招聘。
   ・全国教科運動より平岩宣保、小原芳、長尾半平氏の来援(会場は市公会堂、
    市内連合)。
   ・田村直臣氏(巣鴨教会牧師)来援。
12月 渡部元氏(四谷教会牧師)来援。

 この年は北米加州の排日移民法案騒ぎで、日本にも反米思想の高まった年であった。私は十代の時から内村、植村のものを読み、更に小崎、海老名の主張にふれ、沢山保羅の所信を知るに及んで、日本教科の根本条件は、教会の自給独立にあることを痛感せしめられるようなっていた。しかし子供は2人になり、教会員の大部分は学生青年で経済力のないことを考えると軽々には決断出来なかった。大人の会員は「無理しなさんな」と言ったが、内心は大体不賛成であったものと思う。前年には13家族の家族信者があったが、この年は移動して半数に減じていた。北九州というところは、教会員の移動のはげしいところである。しかし内なる声は独立すべしという。私は悶々の熊で、8月上旬から家族を連れて、大分県の平温泉の中の木賃宿に滞在し、日中は聖書を携えて山に入り、読んでは祈り読んでは祈りの数週間を費した。そして下旬に帰倉すると間髪を入れず、本間俊平先生から、8月29日でよければ応援するという返信料付電報が来た。先生にも3年前から八幡と共同して応援を懇請していたのであった。前後を深く考える余裕もなく、依頼の返電をした。すると本間先生から献金が来る。門司の鶴原氏が応援に来る、下関の広津氏が本間先生紹介文を日刊新聞に掲載したので、700余名の会衆を得る大集会を持つことが出来た。その時の会衆の中には、今のオリンピック組織委員長安川大五郎氏もおられた。その節教会の自給独立問題を本間先生に相談すると先生は「独立はすべきだ」と言う。祈ってくれるかというと、祈るという。しかしまだ、私が決断するまでにはなっていなかった。
 9月に入ると当時天満教会の牧師をしていた木村清松先生の応援の準備だ。先生応援の条件は、「独立したいのだ」といって10月下旬に来て貰った。10月21日と22日の両夜の木村特伝が済んでから、木村先生が教会員のみを残して自給独立の奨励をした。しかし古い執事の1人が「いらないオセッカイだ」と反対した。私は電撃を受けたように立ちあがって牧師としての自給の決意を表明した。それで大勢が決した。木村氏の指導で隣室に移り、手をつないで感謝の祈会をしたが、その時の会員たちの感激は大したもので、泣いて祈った。終ると私の頸に飛びつく者、手を握る者、肩にすがる者数多く、全く感激の数十分であった。11時半に木村氏を宿舎に送り、帰宅して家内と共に書斎で祈った。「神様、明日からは与えられる物だけでやって参ります、ただ今までの借金200円をなんとかして下さい」という祈りであった。寝についた手伝いの娘を起して、「あなたも聞いたように明日からは自給だ、最悪の場合は一日に一食も得られなくなるかも知れないから、あなたに手伝って貰っていえう訳にはゆかない。どこででも適当な所に移って欲しい」と申し渡した。その娘は信仰をもっていたから、よく考えて明日返事をしますといってその時は引きとった。しかし翌朝、「やはりおらせて貰います」といって、2年余続けてくれた。その翌朝の気持ちのよかったこと、真に爽快なものであった。数日の後200円の本屋の借金を払う金も与えられた。なおそれからは謝礼を滞らせたことはない。不思議なものだ。13家族も家族信者がいた時には独立が出来ないで、学生青年が大多数で、40数名の時に決断出来たことも不思議である。
 かくて西部バプテストに於ける唯一の独立教会が出来た。牧師は最年少者であった。先輩達から白眼視されたのも無理はない。しかし私はそんなことを気に付かなかった。それほどまでに単純だったのだ。
 その秋から木村先生のお世話で婦人伝道師を招聘した。
その時田村直臣先生が来援し(九州一巡の序でに)、内村先生のロマ書の研究を下さったこと、内村、松村、田村の内輪話を聞き得たこともよき思い出である。

写真:戦前の日曜学校の様子と思われる。讃美歌の楽譜が張り出されている。

大正14年(1925)
 1月 会報を印字印刷に変更。
 2月・ランカスター宣教師の協力によりバイブルクラス開始。
   ・2月11日小倉伝道開始記念日に、自給独立感謝会開催。前任教師並びに前任宣教師に感謝状を贈った。
   ・片谷牧師腸チフスに罹り入院、2ヵ月間療養す。
 4月 木村清松氏、筧光顕氏(長崎YM主事)来援。
 5月 坂田祐氏(関東学院長)来援。
 6月 木村清松氏来援。
   ・青木澄十郎氏(神戸イエスキリスト教会牧師)来援。
 7月 イエス伝の映画開催(東山磯男氏提供)。
   ・高橋楯雄氏(関東学院教授)来援。
 8月 第1回夏季聖書学校開催(校長米谷美知蔵氏、会場会堂)。
   ・片谷牧師一家、祖母危篤死亡のため約1ヵ月帰郷。
   ・北九州バプテスト教会連合修養会開催(西南女学院にて)。
10月 長谷川敞氏(神戸芦屋教会牧師)来援。
   ・ジュニアバイブルクラス開始。

 1月から会報が活字になった。だから今日まで残ったのであろう。
 ランカスター師がそれまで若松教会を援助していたのを2月から小倉教会に協力することになり、早速バイブルクラスを開いてもらった。
 2月11日は小倉教会の伝道開始記念日なので、その日を期して、自給独立感謝会を開き、前任教師達全部に感謝状を贈呈した。自給は前年の11月から実行してきたのであるが。
 しかし事は順調ばかりに運ばない。自給感謝会の直後に私は腸チフスに罹り、大田病院(メソジスト教会員の)に入院し、2ヵ月を空費した。その時の経済事情も神の恵みであった。日曜日の講壇は神学生であった三善敏夫君が助けてくれたことを記憶している。
 この夏から米谷美知蔵兄の協力によって、夏季聖書学校が開始された。その最後をまたないで片谷牧師一家は家内の祖母の危篤から死のため青森県に帰郷せねばならなかった。しかし夏季聖書学校は、第1回は会堂で、第2回は中原海岸の草原にテントを張って、3回以後は電車線路の上の方の偕好園で、連続12回に及んだ。これは椅子、テーブル、オルガン等を荷馬車で運び、井戸さらいからテント張りまでするという大事業であったが、その実行は全く米谷氏の奉仕に負うところが多かった。
 早天祈祷会も盛んで、毎日曜日朝6時に、戸畑の明専の寮から8名の青年がやってきたが、今のような立派な道路ではなく、中井口で山坂を越さねばならない曲りくねった道であったから6キロ位あったろう。その道を彼らは駆け足でやって来たものだ。冬の朝のまだ薄暗いうちに会堂の前に来ると、少年大和虎雄君が水タゴをかついで、会堂の前まで水を撒いてくれているという訳で、青年たちは負けず劣らず精進したものである。
 米谷氏の日曜学校長と教会々計は、彼が下関に移るまで、約15年続いた。その忠実さは見あげたものであった。
 柏原武人君の、教会書記、執事としての奉仕も格別で、彼は余暇は全部教会に献げていたのである。今彼のいないことを淋しく思う。

大正15年(1926)
昭和元年
 2月 伝道開始記念会のための太平得三氏(九大教授)招聘。
 3月 婦人伝道師大井田邦子氏辞任結婚。
   ・片谷牧師肺尖カタルにて約2ヵ月静養。
 5月 長谷川敞氏来援。
 6月 ランカスター宣教師定期休暇にて帰米。
 8月 第2回夏季聖書学校開催(場所中原海岸櫓山荘下)
   ・佐藤繁彦氏(ルーテル神学校教授)の神学講演会開催。
10月 青木澄十郎氏来援。
11月 沢村重雄氏(広島ナザレン教会牧師)来援。

 婦人伝道師大井田邦子氏は辞任して再婚されたが、その結果は更に不幸なことになった。
 牧師は肺尖カタルで2ヵ月静養を余儀なくされた。
 ランカスター師も休暇で帰米されるし、淋しいことが続いた。人生には調子のよい時ばかりではないものだ。
 8月に佐藤繁彦氏の神学講演会を開いた。彼はカールホルのカルヴィンとルッターの神観の比較論を紹介したのだが、わかったものは、2,3人もいたかしらというほどに高度なものであった。
 いつの頃からであったが、牧師夫人が基督教保育連盟の西南部会々長に選ばれて、数年間ご奉仕もした。

写真:上段左から四人目がランカスター宣教師

昭和2年(1927)
 2月 片谷牧師西部組合の理事長に推さる。
 3月 堀貞一氏(同志社教会牧師)来援。
   ・市内田町に西支教会並びに青年寄宿舎其枝寮開設。
 5月 長谷川敞氏来援。
 6月 大平得三氏来援。
 8月 第3回夏季聖書学校開催(中原海岸偕好園ない、以後10年間同所に開催)
10月 田崎健作氏(倉敷教会牧師)独立記念伝道のため招聘。
   ・野辺地天馬氏招聘。

 この2月に片谷が西部組合の理事長になったとある。既に大正13年(この4年前)に理事になったこともあるから、この年以前から理事長になったのかどうか今ははっきりと思い出せない。何でも西部組合と前後して、西南女学院の理事や理事長にもなったと記憶する。西部の代表者になると、東部バプテストからの2人と共に、日本バプテストを代表して、全基督教を網羅していた日本基督教連盟の総会に代議員として出席することになっていたので、この頃から昭和14年まで、10数年間オセッカイ役を務めたことになる。昭和14年かに一切の連合体の役職を辞した時、名を連ねいていた役目の数が24あったと記憶する。いかにオセッカイしたかがわかろうというものだ。オセッカイを受ける側にとっては、オセッカイする者の地位が権力の座に思われるらしい。従って長くなると反動勢力が起って来る運命をもっている。私の場合も例外でなかったことが後になって分って来た。
 この年の3月から田町3丁目の角の二階家を借りて、下を支教会の集会所にし、階上を青年の寄宿舎にして、其枝寮と命名した。そして活発に伝道したものである。日曜学校も開いたことはいうまでもない。
 同じ月に、同志社の堀貞一牧師が来援されたが、堀氏はその前のハワイでリバイバルを起した人で、新島襄が腕を打ったステッキの破片などを持参して、大いにアッピールしたものである。

写真:第3回夏季聖書学校のキャンプ

昭和3年(1928)
 2月 湧金幼稚園に父兄会よりピアノ1台寄付さる(独逸ホイリッヒ製2号)
 4月 九大総長荒川文六氏来援。
 6月 長谷川敞氏来援。
 7月 幼稚園のための藤椅子デー開催。
 8月 第4回夏季聖書学校開設。
10月 御大典記念のための西隣の塀の増改築をなす。
   ・小倉基督教連盟結成される。
   ・映画会開催(クリスタスとクオーレ)
   ・長谷川初音氏(神戸女子学院教師)来援。
12月 市民クリスマス開催(トキワ座にて市内連合)

 この年の2月に湧金幼稚園の母の会の幹事たちが運動して、父兄から幼稚園にピアノ1台寄付してくれた。而も当時市内には他に1台しかないという独逸のホイリッヒ製の2号であった。それも僅か1週間で寄付が集まってしまったあざやかさであった。当時の幹事の中には中原の橋本夫人や田淵夫人がいたことを思い起す。
 この年は御大典記念行事が流行した年であったが、西隣の土地に平林病院が出来、而も園庭に面した東側に結核病棟が造られてしまった。今ほどの建築規制もなかった時代であったのだ。放って置く訳にはいかない。止むを得ず御大典記念としてトタン塀を造ることにした。その費用はクリスタスとクレオの映画会をして与えられた。
 未曾有のことであったが、常盤座をかりて市民クリスマスを催し、一般市民を招待した。市内連合がいかによく行なったかがうかがえるように思う。

写真:市内連合の礼拝への参加者

昭和4年(1929)
 3月 宗教団体法案反対連合祈祷会開催(北九州連合)
 4月 看護ミッション開始。
   ・協同伝道主唱により賀川伝道開催(5日間、市内連合、来会者数計9,259名、
    決心者数515名)。
   ・賀川氏一行3人から4人、関門北九州伝道2週間の中、11日間片谷牧師宅に滞在
    された。
 5月 中津口SS分校開設(丸田家)。
   ・教会員の消費組合結成。
 7月 杉山元治郎氏(農民組合長)来援。
 8月 第5回夏季聖書学校開催。
   ・J・H・ローウ氏軽井沢にて永眠、横浜外人墓地に埋葬、司式片谷牧師。
10月 杉山元治郎氏来援。
12月 本間俊平氏来援。

 この春の議会に、文部省から宗教団体法案が出されたので、全国の教会が蹴起して反対した。今日と時勢が違うことから若しこの法律が成立すると、キリスト教が更に束縛されることになり、由々しい結果になることが予想されたから我らも全力を尽くして反対運動をしたものである。
 こうした情勢のさ中で、我らは市内連合で賀川豊彦氏による伝道を展開した。氏は協同伝道の本部からの派遣ということであった。小倉の日程は5日間であったが、関門北九州では14日間で、その中11日間片谷牧師が宿をした。賀川氏の伝道は、毎日5時半の朝天祈祷会から始まり、午前は学校や工場で話し、午後は婦人会その他の団体、夜は劇場で一般講演会といった具合で、その用意だけでも大変であった。小倉だけで9,259名の来会者と515名の記名者を得た。集会の合間に賀川氏が口述して秘書に筆記させて本を造る。讃美歌指導者がついて来る。時には雑役連絡係が来る。それに来客がひっきりなしで時には泊まり込む客もあり、食事時には最低1人の割の来客があった。家内と女中だけでは手が廻らず、会員の夫人2人に毎日手伝って貰ったものだ。しかし兎に角大運動であったことはいうまでもない。
 8月に関係宣教師ローウ氏が軽井沢でミッション年会の議長を務めながら肺炎で急逝してしまった。急いでウワーン氏、松原太氏と共に東上し、横浜の外国人墓地に埋葬した。その時の司式は、片谷が一番親しかったという理由でつとめさせてもらった。

昭和5年(1930)
 1月 教会は片谷牧師在任10年を記念し1,000円の生命保険を贈った。
 3月 神の国運動講演会(市内教会牧師)
   ・本間俊平先生来援。
 5月 神の国運動より畠中博(大阪教会牧師)日高善一(京都室町教会牧師)
    来援(市内連合)。
   ・市内連合にて市内を讃美歌進行する。
 6月 映画会開催。キングオブキングス上映(市内連合)。
   ・杉山元治郎氏来援。
   ・斎藤惣一氏来援。
 8月 第6回夏季聖書学校開催。
10月 竹崎八十雄氏(熊本大江女学校校長)来援、独立記念。
11月 亀谷凌雲氏(富山県新庄教会牧師)来援、(市内連合、神の国運動)。
12月 教会主催にて足立クラブに於て古着市開催(小倉市社会課後援)。

 私の在任も10年に達した。教会は記念に1,000円の生命保険をかけてくれた。当時の執事には、城、河内、米谷、柏原、青木氏らがいたように思う。
 この年の特長は、神の国運動が盛んなことであった。毎月のように本部派遣講師の集会が開かれた。
 当教会として特筆すべきことは、足立クラブ(村役場跡)を借りて古着市を開いたことだ。この年は大変不景気な年で、細民の年越しがむずかしいかろうと考えられた為の企てであった。まずはチラシを造り、全市の小学生に配って古着を集めた。その古着は幼稚園のホールに一ぱいになった。それを整理して当日会場に運んだ。一方購入案内のチラシを造って、細民部落を戸別訪問した。その時私は小倉市の周辺に10ヵ所以上の水平部落を発見して驚いたのであった。古着市は当日は盛況でまたたく間に売り切れてしまった。市の社会課の後援があった関係もある。

昭和6年(1931)
 1月 賀川豊彦氏来援(神の国運動、市内連合)。
   ・岩橋武夫氏来援。
 2月 教会員共済組合組織。
 3月 湧金幼稚園同窓会開催。
 4月 升崎外彦氏(和歌山県南部教会牧師)来援。
   ・佐藤繁彦氏来援。(神学講演)
   ・日野原善輔氏来援(神の国運動、市内連合)。
   ・海老名弾正氏来援(神の国運動、市内連合)。
   ・海老名ミヤ氏来援(神の国運動、市内連合)。
 8月 第7回夏季聖書学校開催。
 9月 升崎外彦氏来援。
   ・それまで牧師館として使用していた宣教師館を西南女学院に移転することとなった為    、片谷牧師一家は、始めに堺町3丁目に、後に紺屋町4丁目横丁に移転された。
   ・SS西原町分校(大塚家)開始。
12月 安田忠吉氏(京都同胞教会牧師)来援(神の国運動、市内連合)。

 この年も神の国運動の伝道が活発に行われた。この運動の特長の一つは、どこでも各派連合であったことだ。
 教会も教会員の共済組合を作り、消費組合と二本立てとなり、又幼稚園も始めて同窓会を開いたりして、少々ながら基礎が出来始めたかに思われた。組合は後に相互組合、読書組合にも発展した。
 難問は牧師館の改築であった。大正13年に教会が独立する時、牧師館の提供をミッションに要請したところ、教会と同敷地にある宣教師館を使えということで、足かけ8年間宣教師館住いをした。総二階の75坪もある建物で、掃除と経費に労苦したが、他面にこの建物があったからことそ、賀川氏を始め多くの客の宿も出来たのであった。、この年のミッション会議でその建物を女学院構内に移して宣教師館にすることが決定されたらしい。その代替物が必要なので小牧師館建設費2000円をミッションから、会員も約500円の献金をして翌年の2月に、恰度前の半分の大きさの37坪ばかりの牧師館が与えられることになった。

昭和7年(1932)
 1月 森永太一氏(森永製菓創立者、社長)来援。
 2月 牧師館竣工、片谷牧師一家入居。
   ・申請讃美歌(現行の前のもの)講習会開催、(市内連合、神の国運動)。
 5月 村尾昇一氏(立大教授)来援、(市内連合、神の国運動)。
 7月 本間俊平氏来援。
 8月 第8回夏季聖書学校開催。
11月 長谷川敬氏来援。
   ・賀川豊彦氏来援(神の国運動、市内連合)。

 この年も神の国運動が盛んな年で、多数の講師達が派遣された。
2月に牧師館が竣工して片谷牧師一家が入居した。いつの頃からか電話も牧師館に引いてあったので、大変便利であった。当時電話のある教会は全国での少数であった。
 変り種は、森永製菓の社長を迎えたことであった。彼は青年時代に受洗していたが、晩年に信仰が復活して、商売をしながら(森永のチェーンストアを巡って)信仰の証をして歩いた。当教会は同士の九州最初の集会ということであった。

昭和8年(1933)
 4月 片谷牧師湧金幼稚園長に就任(ミッションより独立す)。
 6月 婦人伝道師今井和子姉来任。
 7月 幼稚園主催石井漠舞踊会開催(勝山劇場)。
 8月 第9回夏季聖書学校開催。
11月 秋季特伝のため賀川豊彦氏招聘。
   ・村岡菊三郎氏(ロスアンンゼルス教会牧師)来援。

 昭和10年までの時代は世界的に不景気な時代で、ミッションの予算も大削減され、幼稚園に対する補助金が来なくなってしまった。その結果幼稚園を教会に移譲し、片谷園長就任ということになった。これから赤字幼稚園の運営が始まったのである。
 頼るものは催物だ。下関の河村氏の斡旋で石井漠の舞踊会を劇場で開いた。これから以後毎年何かして収益を得、赤字を埋めなければならなかった。園児の定員が50名なのに、実際には常に30名前後であったから止むを得ないことであった。しかし当時のキリスト教係の催物は、当局の圧迫を受けたものだ。それに新聞記者まで便乗してたかって来る始末で、並大抵のものではなかった。今更ながらよく戦ったものだと思う。
 この年の春、大阪の女子神学校を卒業したばかりの今井和子姉が婦人伝道師として来任した。
 そして毎日家庭訪問をしたが、実を結んだのは佐々木節生氏夫人や矢野氏続氏夫人らである。

昭和9年(1934)
 5月 夫人伝道師今井和子姉辞任帰京。
   ・ランカスター宣教師定期休暇のため帰米。
   ・岡崎福松牧師(シャトル日本人教会牧師)来援。
 8月 第10回書き聖書学校開催。
   ・英彦山にて夏季修養会開催。
 9月 ウイリアム・ケレー、スポルジョン記念伝道のため斎藤惣一氏来援。
10月 長谷川敞氏独立記念伝道のため来援。
   ・安田隆助氏(九軏会計課長)信仰復興教会に復帰。

 この年春、婦人伝道師の今井氏が親元に呼び戻され、ランカスター教師も休暇で帰米された。当時の宣教師は七年目に1ヵ年休暇をとる規定になっていた。バイブルクラスには他の宣教師が応援に来たが、ラ師のようにうまくはいかなかった。従って淋しい年であったようだ。たこの年は英彦山に夏季修養会を開いて洪然の気を養うことに努めたつもりであった。

昭和10年(1935)
 6月 富江教会牧師大岡兼代氏のため、按手礼会議並びに按手礼式開催。
   ・岡崎福松氏来援。
 7月 菅野半次牧師死去。
   ・幼稚園のためのバザー開催(2日間、商工会議所、2,3階使用)
 8月 第11回夏季聖書学校開催。吉崎彦次郎氏教会敷地に?の家建築。
 9月 ランカスター師帰任。
   ・片山節婦人伝道師に来任。
10月 升崎外彦氏来援。
   ・千葉勇五郎氏来援。
11月 長谷川敞氏来援。

 6月に当教会出身者であった大岡兼代氏のために按手礼会議並びに按手礼式を開催した。同氏の在任した富江教会は交通不便だからという理由であった。
 飯塚教会で発病し、小倉で静養していた南バプテスト最初の信者であり、伝道者であった菅野半次先生が永眠され、当教会で葬儀が行われた。同師はいつも小倉伝道のために祈って助けてくれた方であった。
 この年は7月初めに、小倉商工会議所の二階三階を借りて幼稚園バザーを開いた。その翌年も同様に開催したが、奉仕者80名前後で組織整然と行われた。両年共、料理界の権威者江上トミ先生や、蔵内正次夫人、吉田俊蔵氏ふじんなどの献身的協力が、今でも有難い思い出である。ラ師が帰任し、新たに片山節姉が婦人伝道師に来任されたので、漸く手揃いになった。

昭和11年(1936)
 3月 中居京氏(関東学院牧師)来援。
   ・片山婦人伝道師結婚のため辞任帰郷。
 5月 教会堂の屋根葺替えをなす。
 6月 幼稚園のためバザー開催(2日間、商工会議所にて)。
 8月 第12回夏季聖書学校開催。
 9月 雑誌原理問題処理。4氏除籍。

 片山婦人伝道師は、かねて婚約中であったので3月に辞任帰郷された。今のカベナントの堀川勇氏夫人がその人である。
 会堂の屋根がいたんで雨漏りが始まったので、臨時献金を募集して、前面的に葺きかえられて前よりも補強された結果になった。
 富江を辞して小倉に帰って来た大岡氏に、木町伝道所を造って担当して貰おうとしたが、大岡氏はそれを断って自由伝道者になった。それが次第に無教会の行き方になって来たのと、大岡氏以外の人々も加わって、雑誌を造って運動を始めたので、教会は止むを得ず一線を引いた。その雑誌の名が原理というのであった。

昭和12年(1937)
 2月 ロスアンゼルスの盲人自由伝道者、新里貫一氏来援。
 5月 斎藤惣一氏来援。
 6月 本間俊平氏来援。
 7月 幼稚園のための石井漠舞踊会開催(勝山劇場)
    ・会員4名応召。
    ・福音書館員中島裕治氏協力す。
 9月 北支出征軍人のため慰問袋を発送す。
10月 会員中の応召相次ぐ。
    ・慰問袋160個小倉陸軍病院に寄贈(関門北九州連合)。

 この年は日本がロンドン軍縮会議を脱退して、大きく右旋回を始めた年だ。その中にあって我々はロスアンゼルスの盲人伝道者新里貫一氏を迎えて、体験的キリスト教の紹介に努めた。支那事変も起こり、国粋的気風が高まって来て、伝道が困難になって来た。教会からの応召者が相次ぐし、軍隊の送歓迎や慰問袋運動も頻繁になって来た。即ち受難時代がやって来たのである。

昭和13年(1938)
 1月 野辺地天馬氏来援。
 4月 長谷川敞氏来援。
 7月 片谷牧師夫妻叔母死去のため青森県に帰郷、約2週間。
11月 教会々報を生命の教会版として発行することに変更。

 時局がどうであっても、伝道の手をゆるめた訳ではなかった。しかし効果が上がらなかった。おまけに家内の叔母で、長子明子の法的な養母になっていた八戸市の早藤むらが死亡したので、われら夫妻が帰郷して、その整理に2週間を費やした。教会の会計も緊縮の止むなきにいたり、会報を暫く生命の教会版として発行することに変更された。

昭和14年(1939)
 1月 教会名を、小倉バプテスト教会から小倉基督教会に変更。
 2月 河辺貞吉氏(大阪自由メソジスト教会牧師)来援。
   ・8氏名簿より削除。
 4月 大平得三氏来援。
 5月 賀川豊彦氏来援。
   ・安村三郎氏来援。
 6月 河辺貞吉氏来援。
 8月 英彦山にてSS教師講習会開催(六市連合)
10月 木村清松氏来援。
   ・河辺貞吉氏来援。
   ・大久保忠臣氏(南洋伝道者)来援。
   ・片谷牧師岡山、静岡、長野、東京の療養所を視察す。
12月 西部組合関係の公職を一切辞任す。

 時局の影響もあって、教会名を、小倉バプテスト教会から、小倉基督教会に変更した。当時既に合同の動きもあり、この年に国家総動員法も発令され、いわゆる非常時が始まったのである。
 一般社会ばかりでなく、教会内にも大分旋風が吹き始めた年だ。多年賀川氏の応援を得て来たが、いつしか人間賀川崇拝の気風が見えて来たので、牧師はその是正に努めた。しかし牧師の不徳のいたすところか、反動勢力が出て来た。それを西部組合の意地悪い人々が利用しようという動きであった。こんな不愉快なことはなかった。教界にあるべからざることであるのは勿論、一般社会でも唾棄すべきことであった。
 一方私が多年努力して来た西部組合独立の提案も、この年の年会で敗れたで、私はこの年に協力を断って教会に専念することにした。その役目の数が24あったのはこの時のことであった。しかし六市連合の英彦山日曜学校修養会を主催したり、結核療養所視察のため、岡山、静岡、長野、東京などに旅行したりはした。

昭和15年(1940)
 1月 日本バプテスト西部組合と東部組合とが合同し、日本バプテスト教会組合となる。
 2月 斎藤惣一氏来援。
 3月 大江邦治氏来援。
 8月 英彦山にてSS教師講習会開催。(六市連合)
   ・佐藤瑞彦氏来援。
   ・ランカスター師、時局切迫のため東京に移転す。
10月 今中次磨氏(九大教授)来援。

 西部と東部が合同し、日本バプテスト教会組合が出来た。私はその年の1月の年会議長までは務めた。
 英彦山の日曜学校講習会は続いたが、8月ラ師は東京に移ることになった。時局切迫で女学校内に外人を置くことが危険になったという表向きの理由であったが、内実は軍部の圧力に屈したのであった。やがてラ師は愈々日本をも引きあげねばならなくなった。教会は質素な送別会をし、記念品を贈った。しかし愛する者に愛せられない同師の悩みは深かったに違いない。16年5月には帰米を余儀なくされたが、教会は片谷師をして横浜まで見送らしめた。

昭和16年(1941)
 2月 自由伝道者今井革氏来援。
   ・幼稚園児SKより放送す。
 3月 河辺貞吉氏来援。
 5月 女子青年会主催で不用品交換会開催。
   ・高崎能樹氏来援。
 6月 大久保忠臣氏来援。
 7月 幼稚園児SKより再び放送す。
   ・片谷牧師独り娘明子嬢死去。
 8月 今井革氏来援。
 9月 大原清氏伝道師に来任、1ヶ月で辞任。
11月 日本基督教団成立す。
   ・市内幼稚園連合して保育研究会開催。
   ・片谷牧師隣組長に推される。
12月 大東亜戦争勃発。

 小倉に放送局が出来た関係もあって、幼稚園はこの年2回、SKから依頼されて放送した。
 7月に片谷牧師の長女明子が永眠した。大正9年の誕生で、西南女学院の4年の2学期まで通学したが、感冒が元で発病し、6年間静養したけれども、再起が出来なかった。生来頑健でなかった関係もあったろう。健康であったら少しは役に立つことも出来たろうと思われる。親として胸の痛まない訳はない。死児の年を数える気持ちは、昔も今も変わりはない。
 その年の12月8日に、真珠湾奇襲によって大東亜戦争が勃発した。明子は戦争が起ったらと心配しながら死んでいったが、それがまさに事実になったのだ。
 放送のことで思い出したが、湧金幼稚園に長く奉仕したのは片谷ちよだが、次に長期間忠実に協力したのは、故門和子姉と藤井明子姉とであったことをつけ加えて置きたい。

昭和17年(1942)
 1月 小倉基督教連盟を、小倉基督教連合会に改組す。
 3月 片谷牧師辞任上京。
   ・小倉教会名誉牧師に推挙の決議をなす。

 国粋思想が台頭して来たので、国学の勉強をしなければとの必要を感じて、2月下旬に辞表を提出し、3月15日に離倉した。その日、門前には町内の少年団が整列して見送ってくれ、小倉駅ではテーブルを出して見送り人を受けつけ、駅の入場券が売り切れるという騒ぎで、各位のご厚意感泣せしめられざるを得なかった。
 離倉語、戦時中は、100名に近い人々が後援会を作って、私共の生活を支えて下さった。それらの方々に、上京後の報告書を作ってご覧いただくことが当然だと思うが、今回は間に合わない。いずれそのうちに何とかしてご報告申しあげますから猶予を願います。

  湧金幼稚園 歴代の職員

(大正9年から昭和16年)
大正9年 佐藤いし、高橋とみ(1学期)月隈桃代(2学期)
  10年 熊野節子、神田文緒
  11年 村本きくゑ(1学期)、上原雪江、田村柳芽
  12年 倉田巴、高橋登代(1学期)、正野初子
  13年 倉田巴、田村柳芽(1学期)遠藤艶(2学期より)片谷ちよ(11月より)
  14年 片谷ちよ、遠藤艶、柏木とみ(途中より)
  15年 片谷ちよ、遠藤艶、柏木とみ
昭和2年 片谷ちよ、三宅里(1学期)、門野和子
   4年 片谷ちよ、門野和子
   5年 片谷ちよ、門野和子
   6年 片谷ちよ、門野和子(1学期)佐藤貞子
   7年 片谷ちよ、佐藤貞子
   8年 片谷ちよ、佐藤貞子
   9年 片谷ちよ、佐藤貞子
  10年 片谷ちよ、和田○○、片山節子
  11年 片谷ちよ、前田京子
  12年 方胎ちよ、前田京子
  13年 片谷ちよ、藤井明子
  14年 片谷ちよ、藤井明子
  15年 片谷ちよ、藤井明子
  16年 片谷ちよ、藤井明子